ショートショートのおもちゃ箱(サンプル)


※《SF》編より「生きていくためにとっても大切な薬物の話」《文芸》編より「ご機嫌直しまであと何単位?」、書き下ろしより「消費給付金」をサンプルとして掲載します。





生きていくためにとっても大切な薬物の話


 移動装置は破壊した。これでもう戻れない。
 ここは失われた過去の楽園。逃避行は完結した。タイムトラベルを巡る冒険は終わり、あとは生活が待っている。
 ここに至るまでの艱難辛苦は筆舌に尽くしがたい。ほとんど狂気じみた執念を見せたポリ公との銃撃戦、血みどろの逃走劇、マシン開発資金のためにやった公的金庫襲撃での一幕。そのほか諸々。
 しかしもう終わったことだ。時系列的には未来だが、オレの主観では過ぎし日々の思い出にすぎない。もう裏切り者のアイツやオレの右肩に穴を開けたクソポリ公のことなんて忘れよう。あの苦痛に見合うほどの報酬がこの時代にはある。そういう意味ではオレはあの連中を哀れむ。アイツらはこの時代でアレを楽しむことができないのだから。
 信じられない話だが、この時代では『クスリ』がほとんど規制されず、なんと専門の販売所まで存在している。良心的文化人にとっては暗黒の時代。そして中毒者ジャンキーには憧れ、垂涎の時代。
 初めて『クスリ』を体験したのは七歳の時だ。今でもはっきりと思い出せる。母親も父親もいない哀れな孤児……と影で呼ばれていたらしい。オレは全然気にしていなかったが、世間の崇高な倫理観とやらは惨めな子供であることを強制した。
 貧乏だったのは事実だ。学校でもそれが原因でイジメられていた。そんなオレが偶然出会った密売人……三年前に摘発されて施設送りになった……はオレの適正を見抜いて『クスリ』を一つ無料で譲ってくれた。そいつが『PKD』だった。オレの初体験の相手だ。こいつはアメリカ製でジャンル的には〈SF〉になる。輸入ものの『クスリ』は子供には少し難しい。オレはズブの素人だったこともあって消化には時間がかかった。だが、キマった時の陶酔感や世界がグルグル回るような酩酊感は強烈だった。オレは夢中になった。『クスリ』は生きる希望になった。
 皮肉かもな。世間では「人生から活力を削ぎ労働意欲を奪う」って名目で禁止されている『クスリ』が生きる希望をくれたわけだ。『クスリ』は生きる理由だった。オレは『クスリ』のおかげで学校にも耐えられ、『クスリ』を手に入れるために働いた。
 あとは坂道を転げ落ちるようにドップリ。初体験から贔屓は〈SF〉だったが〈NF〉や〈M〉とか〈PL〉も試してみた。無論〈F〉もだ。なかなか良かったがやはり〈SF〉が一番だった。因みに〈C〉もやってみたが、ダメだった。あの手の半視覚的感じはどうも性に合わなかった。
 集会にも積極的に参加した。主に〈SF〉系の集会に参加して『クスリ』の使い回しや評価なんかもやったよ。そのころにはオレも一端の中毒者になっていた。恩人の見立てどおり、オレは『クスリ』に適した体質だったらしく消化するスピードは人一倍速く陶酔の深さも最高レベルだった。だからコミュニティの中でも割と尊敬されていた。
 そして出会った。忘れもしない第二十三回福岡大会、かつての相棒……土壇場で引き返して密告しやがったアイツ……だ。
 アイツは金持ちのお坊っちゃんで『PKD』や『YT』なんかが好きだった。持ってくる『クスリ』はどれも一流で、量も尋常じゃなかったよ。特にこいつが教えてくれた『SH』は日本製で、他に類を見ないほど短くて強烈。オレは一発でファンになった。
 オレたちは気が合った。友情を深めるのに時間はいらなかった。隠れて酒を飲み『クスリ』をキメて、語り合った。いつからか、オレたちには共通の夢ができた。いつの日かおおっぴらに『クスリ』をキメ、それを語り合える時代が来ればいいのに。……そして、オレたちは重症中毒者ヘヴィとして当然のように発想を転換した。時代にするんじゃなくて、時代に戻ればいいんだ。アイツの資金力と我が頭脳。可能だ。時間を遡り規制のない楽園で思う存分『クスリ』を楽しもう。そう誓い合った。……で、裏切られた。土壇場で怖くなったんだとよ。
 まあ、いい。もう恨みっこなしだ。いや、恨んでも仕方ない。いまごろヤツは矯正施設で別人になっているはずだから。哀れにも綺麗に脳を洗われて……。
 人通りは多いが誰もオレには目もくれない。調達した衣服は間違っていなかったらしい。どうも奇天烈だが時代や流行というのはそんなものなのだろう。
 さっそく『クスリ』を買いきたいところだが、その前に金の調達をする必要がある。そう時間もかからないからすぐに済ませてしまおう。オレはこの時代の地方都市で最もポピュラーな金融機関へ向かい、自動預払機と対面した。具合がいいことに他に客はいない。取り付けの監視カメラはチープ極まりない。楽なもんさ。当座の生活資金として怪しまれない程度の紙幣……そう全能の神たるエ=ン……をポケットに突っ込んで退出する。
 目の前を小さな子供が、聞くに堪えないような汚い言葉を目いっぱい叫びながら走り抜けていった。……ギョッとしてしまった自分が情けない。もう言葉にも気を付けなくていいのだ。言葉遣いは中毒者がバレてしまう理由の一つだ。『クスリ』の影響で非中毒者ノーマルの連中よりずっと汚い言葉遣いをしていしまう。
 だが自称常識人どものお上品な口調には反吐が出る。上品と自称しているが、あれはただ淡白で非人間的なだけだ。バカみたいな口調と言い換えてもいい。
 金融機関から徒歩五分ほどで『クスリ』販売店を見つけた。
 案内板によるとこの店は地下一階を含む三階までが『クスリ』の販売スペースらしい。具体的には地下一階が〈NF〉一階が〈SF〉や〈PL〉を含む『クスリ』全般。二階に〈PB〉が少量、三階が〈C〉を取り扱っているらしい。
 期待に心臓が高鳴る。体の中で機関銃が乱射されているような激しい動悸。こんな感情、初めて〈SF〉の集会に出向いて以来だ。
 気を鎮めるために深呼吸する。生暖かかでガスくさい空気が体を巡る。……街中どこをみても元の時代の方が清潔だった。比べ物にならないくらい空気も綺麗だった。しかし、オレはここのほうが好きだ。あの時代の薄気味悪い静謐さに比べれば、ここは遥かに「人間らしい」から。……と思うのはオレが中毒者だからなのかもしれない。中毒者は決まってこう言う。「管理された清潔さなど、反吐がでる!」とね。
 ともかく、オレは所持金を勘案して一階の『クスリ』から二つだけ選ぶことにした。
 フロアに踏み入る。
 数多もの大きな棚、そこに所狭しと『クスリ』が陳列されている。そこらかしこに『クスリ』『クスリ』『クスリ』だ! ……素晴らしい。知識として知ってはいたが、やはり実際に体験してみるのとではわけが違う。圧倒的だ。
 元の時代で植えつけられた倫理観は叫ぶ。「見るな! それは悪いものだ」
 同時に中毒者としての半生が培った価値観が囁く。「さあ、思う存分楽しめ!」
 そしてこの時代の道徳観はいう。「別に普通のことさ、何を熱くなっているんだい?」
 陳列された『クスリ』が輝いて見えるのはこのみつどもえの感性が入り乱れ、オレを昂らせるからなのだろう。
 しかし……煌びやかだ。流石に合法で販売できるだけあって、パッケージも華美で凝っている。保存性能が高い大きな『クスリ』や廉価で使いやすい小さな『クスリ』など、同じ内容でも多種多様に取り揃えてある。
 フロアを進むと信じがたい光景が広がっていた。
 幾人かの老若男女が棚の前で突っ立っている。
 連中、試してやがるんだ。その場で突っ立って公然と陳列棚の前で『クスリ』の具合を試してやがる。隠れもせず平然とヤッてやがる。ところはばからずキメてやがる。オレは卒倒しそうになった。元の時代では絶対に見ることができないイカれた光景。あまりに背徳的、あまりに扇情的、そしてオレもそれができるのだ、やって良いのだ、という刺すような期待感と臓腑を掻き回されているようなエグい多幸感。
 過熱した感情が脳をグルグル振り乱す。視界が回り、倒れそうになって柱に寄りかかった。
 落ち着け、慌てるな。大丈夫だ。大丈夫……この時代では普通のことなのだ。破裂しそうな心臓を鎮める。……通り過ぎる客が不審げに、そして店員が心配げな視線を寄越し始めたあたりで、どうにか動けるようになった。
 体が重い。汗が噴き出す。額を、腕を、そして足を、汗が流れる。動悸は収まりかけているが、それでも著しく体力を消費していた。足が重い。丁度五年前ポリ公に撃ち抜かれた時の様に。
 まだ店に入って三分も経っていない。
 やめるべきじゃないか。当然の考えだ。遠目から見ただけでこれほど動揺し興奮しているのだ。近くから見たら脳が茹って死ぬかもしれない。そんな無意味でマヌケな死に方はごめんだ。
 ……いや駄目だ。絶対に今日ここで『クスリ』を買う。苦労してここまで来たのだから一刻も早く『クスリ』に没入したい。そして何より矜持が許さない。オレも〈SF〉コミュニティでは重症中毒者ヘヴィとして鳴らした口だ。逃げ出すなど、できるものか。
 一歩一歩、重病人のような足取りで進む。新発売の棚、話題の一品、色調豊かなパッケージに彩られた『クスリ』……眩暈を堪えながら目的の棚までたどり着いた。
 青いパッケージが並ぶ棚。店の端にある海外製専門の棚が目的地だった。ここで『PKD』を買うつもりだったのだ。オレの初体験の相手、オレの初恋の『ヤク』だ。ふらつきながら海のように青い棚に眼を走らせる。
 瞬間、体に衝撃が走る。雷に打たれたのかと思うほどだった。
 正式名称が、書いてある。
 そして、製造者の本名も。
 そう『PKD』や『SH』というのは正式な名前ではない。それはただ製造者の略称をつけているだけだ。だから『PKD』にはいくつもの種類があり、それぞれ違う味わいの『クスリ』なのだ。それをオレたちは無造作に一緒くたにして語っていた。そうせざるをえなかったからだ。
 正式名称は散逸して、もう誰も知ることができなかった。……感動のあまり危うく泣き出しそうになってしまった。考えてみれば、この時代の『クスリ』に正式名称が使われているのは当然のことなのだが、やはり偉大な『クスリ』製造者が丹精込めてつけた名称はあまりに感動的だった。ただ見ているだけで脳が震えるほど嬉しかった。涙が溢れ出そうで、眼を擦りながら、震える手で『クスリ』を手に取る。
 ダメだ。他の客がそうしているようにその場で少しだけ試してみようかと思ったが、少しでもヤッてみれば最後、もう閉店時間までに『クスリ』の世界から戻ってこられなくなる。
 仕方ない。記載してあるタイトルで直感的に選ぶことにしよう。『PKD』は十冊ほど並んでいる。この時代でも人気者らしい。青い陳列棚から『PKD』を一つ、そしてやや離れた場所にある国内産を扱うエリアから緑色の『SH』を一つ選出した。
 レジへ向かい知識どおりに会計を済ませる。
 こうしてオレは『SH』と『PKD』を一つずつ買い『クスリ』販売所を出た。
 ……いや、訂正しよう。もう略語で呼ぶ必要もない。この時代で生きていくのだ。だから正確に言おう。
 オレは星新一の『白い服の男』とフィリップ・K・ディックの『ユービック』を一冊ずつ買って〈サイエンス・フィクション〉〈ノン・フィクション〉〈ミステリー〉〈ファンタジー〉〈純文学〉〈コミック〉〈絵本〉が燦然と並ぶ書店を出た。
 2016年、日本。ここでは思う存分『書籍クスリ』を楽しめるのだ。
 薄汚れた大気の元、雑多で乱雑な言葉を使う人々の中で。




     ご機嫌直しまであと何単位?


「……じゃあ、こんなのはどうかな。古代中国人は暦を音楽と関連付けていた。彼らは調律に均衡という概念を見出し、規則正しい音律の調べに天地の調和を感じる知性をもっていた。歴代の史書には音楽に関する規定がたくさん残されている。例えば『呂氏春秋』は十二ヶ月を同じく十二の音律に対応させて論じていて、音楽と暦は天地人を繋ぐ概念として捉えられていた。不思議なものに対して規則性を見出して理屈を探るって意味では科学的思考のはしりともいえる」
 目まぐるしいほどの早口。
「科学の反対語といえばオカルト。世の中にはたくさん不可思議なことがある。現代ではその多くが科学によって説明できているけど、当然ながら例外もある。……いいねえ、例外! ぼくが大好きな言葉だ。例えば、幽霊って存在は科学では説明できな……あ、プラズマで説明できたっけ。ちょっと待って。ええと、ほかに何か……」
 口ごもったのも一瞬だけ。すぐに忙しなく動き始める。
「ちょっと話が戻るけど時間について。時間という概念は言語に先行することはありえない、なんて理屈を聞いたことあるかな? つまり時間とは言語ありきの概念なんだ。人間が言語を獲得することによって始めて時間という概念が生まれる、というよりは理解できる、かな。だから口にした瞬間過ぎてしまう〈たったいまこの瞬間〉という〈今〉でも〈過去〉でも〈未来〉でもない〈時間〉を正確に表現する言葉はない。勿論、暦を用いれば表現できるけど、時間という概念の不在性から考えると遅刻なんてものは……あっ、違う、いまのはなし」
 賢明にも私の表情を読みとってくれたらしい。いくらなんでもそんな理屈ではダメ。
「つまり……その…………そう! 時間といえばカレンダーだよね。世界には色々な暦があるけど、その多くが太陽もしくは月の動きを観測することによって作り出している。賢明なやり方だと思わない? 太陽と月の動きは大きく変わったりしないから基準としては最適だ。もし変わってしまったとしても、そのときは人類が絶滅するほどの天変地異が起きているのだから暦なんか気にする必要はない。
 月や太陽は暦を作るための尺度だ。同時に時を測る道具でもあった。秒、分、時、日、週、月、年。ぼくらが現代でも使っている単位ができあがった。………そう、ここからが本題! 単位って概念は人類の生み出した最高の発明なんだよ。単位があるから曖昧なものを測り、表し、伝えることができる。長さ、重さ、大きさ、それに個数だってそれぞれに基準となるモノサシが用意されている。もちろん、俺もまさにこの瞬間、これまでの経験を総動員して一つの天体を測っている。キミという天体だ! 例えば、この低い声は三シュークリームで聴き心地の良い美声に変わってくれるとか、この冷たい視線は五チョコレートで温かくて優しい慈愛のまなざしに変わってくれるかなって……ココアでも飲まない?」
「っふ」
 噴出しちゃった。私の負けだ。
「分かったよ、分かった」
 もう少し口を利いてあげないつもりだった。せっかくの記念日に三時間近く遅れてしかも音信不通。合鍵で入った自宅にも居ない。心配で必死になって探し回らせておいて、友達の家で酔いつぶれていたなんて。まあ、陰気になって落ち込まれると余計に腹が立つからマシンガントークでも続けてくれたのは良し。最初の五分間は顔を真っ青にして謝ってくれたし、あの時点で許しても良かったくらいだけど、今回はちょっとひどすぎる。これで三十分近く喋り続けているけど、それなりに面白い話だったし、内容の重複もなかった。合格かな。そろそろ仕上げに移ってあげよう。
「謝罪の気持ちを、どんな単位を使って伝えてくれるの?」
 待ってましたとばかりに輝き出す瞳。けど、そう簡単に許すつもりはない。この店の前を通り過ぎるまで考える時間を与えよう。……残念、時間切れ。
「ところで」
「えっ」
 私が喋ると思っていなかったみたいだ。弁舌爽やかな彼の、そうとは思えないほどマヌケな声を聴けるのは私だけの特権だ。
「今日のファッション、何か足りないものがあると思わない?」
 彼は停止した。私の意図に気づいたからだ。ショーウィンドウの中央には新作という文字とともに華やかなデザインのバッグが飾られている。本当、頭の巡りが早くて察しがいいから大好き。表情筋を操って、とびきりの笑顔。
「私の誕生日、覚えているよね」
 誕生日は来週だ。彼はおどけた顔のまま固まって、口の端をピクピク痙攣させた。値札に並んだ六つの数字は偶然にも私が生まれた年月の数字と一致している。日にちまで入ると非現実的だろうけど、これなら無理すれば買えなくもない。
 別に本気で欲しいわけじゃないけど、もう少しだけ怖い顔を続けよう。彼が本気で悩んでくれている姿が嬉しい。暦の上では夏も終わっているけど、まだけっこう暑い。汗で光る彼の顔を見飽きたら、いつものカフェにでも行こうかな。
 一ミルクティーと二ケーキで許すなんてね。私も安い女だ。




     消費給付金


 国家もしくは地域がある程度安定した状況にあることを前提にするが、経済学において不況の原因は供給側、つまり企業側には求められない。珍妙なお菓子を作る製菓会社や味も接客も悪い居酒屋に不況の責任を負わせることはない。国家や地域全体における経済の動向は個々の企業の業績とまったく次元が違う話だからだ。
 では、需要側、つまり消費者が悪いのだろうか? たしかに需要側に原因を求めるが、それは消費者個人を責めたてるものではない。
 消費者はなぜか金を使い渋ることがある。それなりに金を持っているはずなのに物を買わずサービスも利用せず財布の紐を固く締める。なぜそんなことが起きるのか? 考察した理論はいくつかあるが、論争が激しく毀誉褒貶と罵詈雑言や拍手喝采が入り乱れ、どれも定説となるには至っていない。しかし、このような現象が起きていることは疑いようがない。この場合、一般市民が適切に消費活動することが不況の解決法になる。
 簡潔にまとめると、資材や労働力が極端に過不足することもなく、また生産加工の現場から市場へ物品を輸送する機関が十二分に発達している社会では人々がもう少しだけ貨幣を消費する方向に動けば物事が良い方向に進むのだ……という説がある。主流であるかどうかはともかく。
 この議論を根拠に創設されたのが消費給付金制度である。法律はさらに難解な名称を与えているが一般にはバラマキという名称が流通している。これは政府が財務省および内閣府の助言に基づき直近三ヶ月の消費動向およびデフレ指数を総合的に勘案し、長期的なインフレ率二%程度を目標に直接的な財政政策による慢性的なデフレ回避を目的とする方策を指す。小難しい理屈を抜きにして簡潔に表現すると、デフレ方向に経済が悪化したらそれを解決するために国民に金を配りますので、みなさんどうぞお金を使ってください、ということだ。
 最初期は直接現金を配布していたが、これが一割程度しか消費に回らないという効率の悪さが問題となった。これも長期的には有効であるとする説もあったが求められるのは短期効果だった。したがって現金の配布は廃止され個人識別端末への当該金額分のポイント付与に変更された。このポイントは期日までに消費しきれないと消滅する。単純で典型的だが名案と思われた。短期で消費することに単純明快なインセンティブを作ったのだ。だが、それでも付与されたポイントの半分近くが期限までに消費しきれず無為に消えていった。この事実を知った政治家および官僚たちの愕然とした表情は見ものだった。ヒトに備わったある種の鈍さと愚かさを理解した彼らはポイントの期日内消費を義務とし、違反者に罰則を与えることにした。完全消費の義務化である。
 さて、彼はそのバラマキを使い忘れていた。気が付いたのは熱い夏のある日、月末は二十二時。友人の放った何気ない一言がきっかけだった。久方ぶりに再会した旧友とバーでしたたかに飲んでいたが、支払いの段階になって旧友はふと思いついたことを冗談めかして言った。
「おれの分まで払わなくていいか? 同僚が四か月前のバラマキを消費しそこねたんだよ。なんでもスナックを飲食だと勘違いしていたらしい。無形サービスに変わったのは去年からだから勘違いしてもしかたないがね。今年もタクシーや書籍の科目が変わってたしな。税制が法改正の影響を受けやすいとはいえこうも頻繁に……」
 続きの言葉は隣の男の顔色を見た瞬間に尻つぼみに消えてしまった。旧友は支払いかけていた店の払いを全額その男に譲り渡した。時間が惜しい男は一礼し、端末をかざす。支払いは二人で七八六九円。店員が憐憫の目で見つめる中、彼の狂奔が始まった。残り二時間。総額約五万円。
 彼にとって不幸だったのはこの会計で飲食科目を完全に使い果たしてしまっていたことである。そうでなければ引き続きバーで散財すれば済むのだ。消費の偏りを防ぐため給付金の使途は大まかな区分が定められており、それぞれ指定された産業の物品やサービスを購入する必要がある。残りは科目別に、飲食四八七円、無形サービス三八五〇円、雑貨一五四七八円、家電三〇〇〇〇円。衣料装飾品目や娯楽品、時間のかかる交通及び通信費などは消費が完了しているのが不幸中の幸いだったろう。
 彼は隣のコンビニに飛び込んだ。目についた二五〇円のエクレアを二つ購入し、次の店に向かいがてら口にする。カスタードの甘味で口中がべっとりし飲み物を買いそびれたことを後悔しながら、足早にアーケードを歩く。
 こんなときにも人は無為な買い物を忌み嫌うらしく、男は次の目標を雑貨に絞りながらも、入店を躊躇していた。ここは地方都市の市街地で衣料品店や飲食店は多いが、雑貨を取り扱った店となると格安店か北欧系のおしゃれ雑貨店が大多数で、前者はまだ購入の可能性があるが価格の低さがかえって足枷になる。
 家具ならどうだ。インテリア全般はたしか雑貨扱いだったはずだ。いくらか回り始めた頭がはじき出した答えに彼は飛びついた。
 残り一時間と二十五分。彼は繁華街から裏道に入り込み、どうにか趣味が合いそうな家具インテリアショップを見つけた。狭い店内を歩き回り、事情を察したであろう店員の憐憫の視線に耐えながら店内を練り歩き、三四〇〇円の電気ランプ、一三〇〇円の収納ボックスを二つ、六〇〇〇円の折りたたみテーブル、三五〇〇円のスタンドミラーを購入。持ち歩くわけにはいかず配送の手配を済ませ、配達料金七〇〇円は無形サービスから引き落とした。店を出たころには疲労で身体が重く頭に霞がかかりかけていたが、時は無情にも進み続ける。止まるわけにはいかない。
 残り一時間二分。残金は無形サービスが約三〇〇〇円、家電製品が三〇〇〇〇円。
 残高が多いほうから片付けよう。端末で検索したところ、家電量販店が市街地の端から四キロ弱ほど先にある。タクシーを使うべきか、いや渋滞具合から考えると市電のほうが早いかもしれない。残りの消費科目のことが頭をよぎったが、どちらも交通費扱いだから今回の消費とは関係がない。逡巡の時間が惜しく、彼は市電の最終便に飛び乗った。揺られること十九分、さらに歩いて五分、独立型の量販店に到着。本来は深夜帯まで店を開けてはいないのだがバラマキの締め切り月はかけこみ需要が見込めることもあり日付が変わるまで開店している。
 幸い店内は閑散としていた。彼はフロアを徘徊し、配達の手続きの時間を省略するために持ち歩き可能な高額商品を探し、彼はミドルクラスのヘッドフォン三二〇〇〇円を購入して店を出た。
 残り三十分。あとは無形サービスが約三〇〇〇円だけ。まだ時間には余裕がある。大丈夫だ、大丈夫なはず……。
 ここはやや寂れた郊外。
「無形サービス」
 男から、笑顔と余裕が消えた。
 無形サービスは物品を伴わないサービスを指し主にレジャー産業が該当する。カラオケやボーリング、もしくは劇や音楽の鑑賞チケットが代表例だが、前者はすでに市電が終了していて市街地に移動するだけの時間が足りず、後者はそもそもすぐに手に入る性質のものではない。バーとは違いスナックのような接待を伴う飲食店は無形サービスとして扱われるから、市街地にいる間にスナックに入るか、もしくはカラオケ店にフリータイムで入り所用と称して退店すればたいして時間を消費せずに三〇〇〇円程度使い切れたはずだ。後悔は先に立たない。
 残り二七分。
 彼は焦燥と疲労で手許が狂いながらも端末で検索をかけた。最も近いカラオケ店で三キロほど距離がある。
 とにかく近く走ろう。まにあうかもしれない。一分でも時間が惜しい。徒歩での予定必要時間は三十分。日頃有酸素運動をこなしている者ならば走ることで簡単にたどり着けただろうが、運動が不得意な彼には厳しい距離だ。だが、やってみなければわからない。どうにか滑り込みで間に合うかもしれない。一呼吸を置き、走り始めた。彼は走る。深夜の街を。
 残り二十分。
 息も切れ切れに彼は走り続けていた。強歩くらいの速度しか出せていないのに、横隔膜は破裂しそうで、咽喉は焼けるように痛み、脚はブリキおもちゃのようにぎこちない。時間が遅く繁華街から離れていることもあり、タクシーどころか乗用車すら見当たらない。家電量販店を出発したときそのことに気づいていれば、タクシーを拾えたかもしれなかったが、近道するために込み入った細道に入ってしまった状態ではもう不可能に近くなった。
 残り十九分、十八、十七、十六……端末に導かれるがまま永遠かと思えるほど時間を彼は走り続けた。汗は吹き出し、視野は狭まり、呼吸はできているのが不思議なくらいだった。彼はようやく国道に戻ることができた。
 残り六分。目的地が見えてきた。
 地方にありがちなオープンモール型のショッピングセンター。円形に広がったテナント各店が煌々と光を放っている。彼は破裂しそうな身体にムチ打って、誘虫灯に吸い寄せられる羽虫のように指定の地点へ向かった。もう大丈夫だ。間に合った。
 店の前に立つまでおかしいと気づけなかったのは脳に酸素が回っていなかったからだろう。彼は自分が見ているものが理解できなかった。灯りが消えている。モールのなかで唯一、目的地であるカラオケ店だけが閑散としている。彼は店のドアまで近づいた。張り紙が貼ってある。
〈機材整備のため臨時閉店〉
 残り三分。もう、間に合わない。
 彼はほとんど無思考にモールの出口へ向けて歩き始めた。
 残り二分三十秒。疲労と失望で頭が回らない。帰ろう。ふらふらと駐車場を歩く。とにかく人がいないところへ行こう。
 声が聞こえてきた。
「すみません。本当に、すみません。財布も端末もどこかで落としてしまって。本当なんです……」
 残り二分。虚脱感が体を支配する。入り口すぐ近くの駐車場でタクシーの運転手と女性が揉めているらしい。そうか、タクシーで帰ればよかったのか。ちょうど出払っているのかほかにタクシーは見当たらない。
「あの、払いますよ」
「えっ? あの、貴方は……」
 困惑する女性をしり目に彼は運転手のほうに進み出た。誰かに親切にすることが情状酌量につながるとは考えていなかった。ただ、少しでも自分が犯した失態への罪悪感と失望感を少しでも軽減したいという気持ちが心の片隅にあったのは事実だった。とはいえ、大部分は早くタクシーに乗って家に帰りたいという欲求が占めていた。彼は事情を呑み込めない女性の言葉を無視して端末を差し出した。運転手は運賃をいただければそれでよかったらしく、彼の端末から運賃が支払われた。
 残り一分。
 明日出勤できないことを上司にどう説明しよう。自己の怠慢による過失であるからには相応の報いが待っているはずだ。良くても重い叱責、悪くすると減給や降格、左遷を受けるかもしれない。懲戒解雇にはならないだろうが、しばらくは職場で嘲笑われるだろう。重い感情が胸の中で渦巻く。
 残り三十秒。女性は感謝の言葉をひたすら並べているが、男の耳にはほとんど入っていなかった。もう少しで端末が警告音を発し、彼がいかなる違反を犯したかを声高に周囲に触れ回る。そうなるまえにここを立ち去りたい。彼は空車になったであろうタクシーに乗り込もうとした。
 残り二十秒。
「あっ、ちょっと待って」
 女性は彼の腕を掴み引き戻した。残り十五秒。
「あの、もう大丈夫ですから」彼は虚ろな目のまま言った。十三秒「けどお礼もできないまま……」七秒「いえ、もう行かないと、行かないと、行かないと」五秒、男の胡乱な言葉は逆効果だった。女性は彼を離さず、運転手はトラブルは御免だとばかりにドアを閉じてしまった。残り一秒。
 日付が変わった。
 虫の鳴き声と遠くから人々のざわめき。
「……あの、大丈夫ですか?」
 警告音は鳴らない。男は端末の電源を確認した。充電は満タンで輝く画面はなにも言わずにホーム画面で時計を示している。いま日付が変わって零時一分。
 男は何が起きているのか理解できなかった。
「……バラマキを満額使い切れなかった、はずなんです」
 男はようやくまともな言葉を発した。女性は何かを察したらしく、短く声を漏らした。彼は端末で使用履歴を確認した。無形サービスの最後の消費詳細は二三時五八分、タクシー利用代金三一五〇円と記載されていた。すぐには喜べない。それが一時的な不具合である可能性のほうが高いのだから。
「あの」
 女性はようやく彼の腕から手を離し、正面に回り込んだ。
「消費給付金、ですよね」
「……ええ」
 女性は軽く深呼吸をした。
「私、会社で法務の仕事をしてまして、職業柄税制関連の法律には詳しいんです。お見受けしたところ、さっきのタクシー利用代が無形サービス扱いになっているのに困惑なさっているのですよね? 実は今年度からタクシー利用は交通費から無形サービスに科目が変わったんです。ですから、問題はないはずです」
 その瞬間、二時間前の旧友との会話が脳の奥底で甦った。「今年もタクシーや書籍の科目が変わってたしな」あれは交通費から無形サービスに変わったということだったのか。安堵と歓喜が体いっぱいに広がる。彼の瞳に光が戻った。
「ありがとうございます」
 二人は同時に同じ言葉を発した。彼はようやく女性を正面から見た。やや茶髪気味のショートカットで耳に複雑な造形のピアスを嵌めていて、印象的な丸い瞳がきょとんと男を見つめていた。二人とも吹き出すように笑いだした。
「良ければ連絡先を教えていただけませんか? 財布と端末をどこかで落としてしまったのでいますぐには返せませんけど、いずれお金を返さなければなりませんし、それにお礼をさせていただきたいですから」
 誘いを断る理由は、もうなくなっていた。
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