落涙のあとさき―サンプル―

 

 

 空を切り裂く音。

 頭の中には声。

 ……涙?

………………1………………

 銃声。

 同時に赤黒い液体が宙を舞う。拳銃は男の手から零れ落ち、俺の足元まで滑ってきた。

 男の顳顬から血が流れ、鉄の生臭さが少し離れた俺のところまで漂い、赤い筋は頰や耳を伝って乾いた大地に染み込んでいく。微生物の滋養にくらいはなるだろう。ドクドクと止めどなく流れ落ちる赤い液体だけが、その男から感じ取れる唯一の「生」だった。

 まだ若い。二十代前半くらいだろう。痩せていて肌は青白くとても野外労働従事者とは思えない。というより荒野のど真ん中にいること自体が不自然で、自殺するにしても陰気な屋内で首を吊って死ぬのがお似合いだが、こんな辺鄙な荒野で骨董品ものの時代錯誤な拳銃をぶっ放して自殺する手合いではない。こいつは自分の顳顬を撃ち抜いて死んだ。それも俺の目の前で。

 俺のせい……まさか。砂多伏サタブセへの道を訊いただけだ。この辺りにくるのは久しぶりだから安全な道筋を知りたかった。この男とは一面識もない。なのに俺の質問を受け男は突然唸りだし、そして自殺した。

 何故? ……何故こんな場所で、何故こんな男が、何故自殺なんか……わからない。何もわからない。だが、故に一言でこの状況を説明できる魔法の言葉がある。その名は発狂。全てが不条理という状況でのみ逆説的に全てを合理へと変えてくれる言葉。だが違う。断言してもいい。この男は発狂して死んだわけじゃない。

 自殺する寸前、目を緩やかに細め少しだけ口角をあげて小さく歯を見せた。そしてゆっくりと何かを確かめるように引き金を引いた。

 笑顔だった。それも諦念が入り混じった哀しい微笑。狂人にはできない温くて人間的な笑みだった。

 じゃあ俺が原因か。発狂でないなら少なくとも俺が原因で……もし、ここにいるのが二人だけだったら、そう考えるしかなかった。だが、ここにはもう一つだけ要素がある。いや、要素が居るというべきか。

 顔は妙に青白く髪が腰辺りまで伸びていて、背丈は俺の肩のあたり。

 風が吹いて、豊かな黒髪が揺れた。

 死体の傍らに立っている。年齢は高く見積もっても十代後半で二十歳を超えてはいないだろう。黒々とした長い髪を風になびかせ色の無い表情のまま一言も喋らず死体を見下ろしている。何の感情も読み取れず喜怒哀楽はない。目と鼻と口がただ張り付いているだけで、表情という機能を感じられない。

「気の毒だったな。その……連れの男、どうしたんだ? 事情を話してもらえるかな」

 俯いたまま黙っている。

「知り合いじゃないのか」

 ピクリとも動かず、喋り出す気配すらない。

 なんだ、コイツ。一丁前に黙秘しているつもりか。罪悪感を隠すために、もしくは犯行の言質をとられないように。警官でも法務官でも憲兵でもない俺に何を喋っても一切証拠能力なんてない。いや、録音されていれば話は変わってくる。しかし、まさか。こんなガキが、いくらなんでも……。

 ああ、そうか。口をきけないのか。この年嵩の少女が目の前で人が死ぬのを目撃すれば口をきけなくなるなんて当たり前だ。多分このガキも俺と同じで知り合いでもなんでもなく単に通りかかっただけなんだろう。

 何であるにしろ、男の死体をここに放置するわけにはいかない。男が死んだ理由や口をきかない少女は後回しにして、いま目の前にある現実……つまり、男の死体の処理……から対処しよう。

 もう正午に近い。今はまだそれほどでもないが、あまり陽が高くなってからの労働は如実に容赦なく体力を搾り取るし、死体も腐臭を放ちはじめる。感情的にも、そして衛生的にも、可能な限り腐乱死体には触れるべきではない。

 十字を切り額で摘む。意味は分からないが死者の冥福を祈る儀式らしい。ばあちゃんの受け売り。黙祷ついでに気持ちを落ち着かせる。……まずは検分から始めよう。

「何、しているんですか」

 頭の上からボソボソと澄んだ声が聞こえた。

 声の方向に顔を上げると、乾いた眼が俺のことを見ていた。作り物じみた瞳。どうやら口がきけなかったわけではないらしい。

「……何ってお前、あれだよ、あれ……そうだ。遺品回収だよ」

 短上衣ジャケットを剥ぐと痩せこけた上半身が露わになり、俺の評価が正しかったことも分かった。衣服の類はあまり高くは付かないだろう。安手の生地だし意匠も安っぽい。特に値の付きそうな装飾品もない。しけたものだが、まあ、荒野で野垂れ死にするような男ならこんなものか。

「死体漁り」

「まあ、そうだな」

 よくそんな直截にものが言えるな。

 拳銃……これは良いかもしれない。武器類は俺の専門でないから断言はできないが、比較的小さな口径で単発式なことをみるに結構な年代物らしい。このご時世に実弾仕様の銃なんて代物を持ち歩いているとは、最期が最期だっただけに相当な変わり者だったらしい。実弾銃は愛好家に高く売れる。弾は一発しか残っていないから若干価値が下がるのが残念といえば残念か。何も骨董品で死を選らばなくてもよかったのに。

 そういえば旧世代武器オールディーは旅のお守りだったな。だからこの男こんなものを持ち歩いていたのか。旧世代武器オールディーを片手に涙が出るほど懐かしい歌オールディーズを口ずさめば一日中オールデイいいことずくめ、だったか。ばあちゃんがそんなこと言ってたな。それに一度人を殺した銃は二度と殺さないともいうし。買い手が付くまで持っておこう。

「けどな」

 死体はほとんど裸になったが遺留品の中に身分を証明するようなものは発見できなかった。名前すらわからない。野垂れ死にとはいえ、ここまで素性が分からないのも珍しい。

「俺は埋葬してやるんだ。その駄賃としては安いもんだと思うがね。第一、この男に限らず死者に財産なんて必要ないだろ。どういう事情があったのか知らないがコイツだってそう思ってるはずだ。荒野で野たれ死にするような奴が望むのはたった一つ。死後に自分の身体が野良どもに食い散らかされませんように、ってことだけ」

 宗教的な道具も見つからなかったから俺と同じような無信仰の孤人アウトローで間違いない。どう埋葬しようが構わないだろう。それに俺がやったことは財法二十一条二項及び執行法六十条に基づいた正当な行為であって窃盗行為には当たらない。遺品を失敬するのも、お役人様の仕事の代償としては過分とはいえない。判例通説共にこれを認めているのだから、良心を痛める必要もない。まあ大して利益にはならないが。

「そんなもの、なんですか」

「そうさ。俺だってそう思ってるくらいだからな。ところで、手が空いてるなら貸してくれないかな。結構重労働なんだよ、穴掘るのって」

「素手で?」

「なっ……」

 しまった。反応してしまったのは失態。

「……俺はイヌチクじゃない。だから道具を使うんだよ。悪いか?」

「もしかして非適応者ルゥォウーなんですか」

 景色が弾ける。言葉がこだまする。

 初めて握った女の掌。発覚と侮蔑の眼、「え、アンタ非適応者プアだったの」落胆の声色、罪悪感と不条理。胸が詰まる。息が苦しい。中年の男、黄ばんだ歯、怒声。「非適応者プアのクズが……早く出て行け。オラッ、出てけって言ったんだよ。うせろボケが」シティの外、冷たい雨。さむい、こわい。

 手が震える。横隔膜が痙攣する。怒るな。落ち着け。大人になれ。落ち着け、落ち着け。今までのこんなことで怒っても何も良いことなどなかったじゃないか……。

 二呼吸。落ち着け、怒るんじゃない。三呼吸。大丈夫だ、落ち着け。…………よし。

「だからガラクタの運び屋なんかをしてんだよ」

 ちょっと考えれば分かることだ。古物商なんて儲けにならない割に危険で肉体的にキツイ仕事、非適応者プアでもなければ誰がやるものか。

「そういうものですか」

「ああ、そうだよ。ンなことどうでもいいから、車から貯水槽を持ってきてくれ。手を使うなり念動力キネシスでなりどっちでも構わんから。水で湿らせんと固くて掘れたもんじゃないんだよ」

 お前がどんな適応者アジャストだか知らないけどな。第一、念動力者サイコキノでなければ誰でも道具を使う。

非適応者ひてきおうしゃ……なのに……」

 このクソガキ。一度痛い目に……。

 ガキは俺を見ていた。何も映していないような澄んだ瞳。

 瞬間、何の前触れもなく地表に割れ目が走った。ひび割れた地表は少し陥没して、やがて攪拌されたかのように粉砕される。硬い礫は砂のように細くなり、その多量の土砂は吹き上がって男の死体の近くに積もった。全て無音で、まるで砂塵に生命が与えられたかのように流暢に。……言葉が出ない。咽喉が収斂して意味のある音を外に漏らさず、身体に戻っていく。砂塵、一瞬、死体、素晴らしい、念動力者サイコキノ、暴力、凄い。ガキも何も言わず再び掌をかざす。

 男の死体は浮かび、さっきの穴の中にスッポリと収まった。さっきの土砂がフワフワと宙をすべり、その上に降り積もった。

 俺がやれば汗水たらして働いても、ゆうに一時間はかかったはずだ。それをコイツはたった数秒で終えてしまった。

 ……凄い。

 他に表現しようがない。今まで念動力者サイコキノなんて、それこそ星の数ほど見てきたが、これほど強い力にはお目にかかったことがない。しかも、こんな年若いヤツが……。

「お前くらいの年でこんな……」

 ようやく口にできたのは我ながら間抜けな言葉。ガキは相変わらず妙に乾いた目で真っ直ぐにこちらを見つめ、小さな声で言った。

「お願いしたいことが、あります。連れて行って欲しい場所があるんです」

(君は物語の奴隷だ)

………………2………………

 ……なんだ。このガキの声じゃなかった。高い男にも低い女にも聴こえる妙な声色。しかも耳から聴こえた感じがしなかった。直接脳に言葉が入ってきたみたいで、これは……そうだ、装着型音響装置イアで音楽を聴いた感覚に近い。どこから聞こえた、という方向の感覚はなく突如脳に湧いてきたかのような、額で音楽が生まれているような聴こえ方。 ……少なくとも声が届く範囲に人影はないし、ガキの声ではない。となると……。

 精神感応力テレパシー

 息が、止まる。鎖骨の辺りを締め上げられたような息苦さ。頭頂が震え身体に広がる。

 この歳で獲得した人間なんて聞いたことがない。けど、聞こえた。しかも人影がないところで受信できたのだから超長距離型で相当技能力レベルが高い。高技能力レベル精神感応力テレパシー! やった! あいつらを見返せる。俺もやっと人並みになる。こんな仕事にしがみつく必要もなくなる。もっと効率よく稼げる仕事を探して、そうすれば学費だって……。

 あ、いや違う。精神感応力テレパシーは直接頭に響くように受信するが、それとは別に発信源の方位とおおよその距離くらいは感じ取れる。さっきのように方向の感覚が全くないなどありえない。胸から熱が消え去る。少し考えれば分かったはずだ。浅慮で身の程知らずな俺に相応しい。

 じゃあ、いったい何だ。

「どうかしたんですか」

 ……忘れるところだった。

「……いや、なんでもない。それより連れて行ってほしいとか言ってたけど、どうして俺に?」

「貴方は車を持っていて私は持ってません。だからです」

 言われるまで気づかなかった俺もマヌケだが、確かにこのガキの周囲に移動手段らしいものは存在しない。いや、あるにはあるが、それも破損した大型の単車が一台だけで、とてもじゃないがガキの背丈では乗り回せそうにはない。多分死んだ男の物だったのだろう。

「ふうん、なるほどね。内容と報酬は?」

「依頼の内容は私を地路是ジローゼに連れて行くこと。報酬は……このくらいでどうですか」

 そう言って、内衣嚢ポケットから一握りの紙幣を差し出した。……悪くない。地路是は、ここから三つほどシティを経由するから……三日もあれば着くだろう。報酬は相場よりも高いし、ここからの道程ルートで危険なものが出たという噂……例えば野盗や極端な道路の破損など……は聞いていない。

 しかし方角が正反対の砂多伏には行けなくなる。

 別に外せない用事があるわけではない。車に積んでいるのは砂多伏向きの骨董品ばかりだが、納品契約を締結しているわけでもなく急ぐ必要も無い。

(君には選択肢がある)

 また聴こえた。

 ……やっぱり幻聴なのか。いや幻聴というのはもっとボンヤリとした声色のはずだ。行き倒れたときに聞こえた眠気を誘うあの音声とは全く違う。こんなにハッキリと聴こえるわけがない。もしここまでハッキリとした幻聴があるとしたら薬物で脳が踊っているか、本当に死にかけて心が消えかかっているかのどちらかだ。もしくは病。聞いたことはないけど幻聴を誘発するような奇病があるのだろうか。

(選択肢を示そう。

 君が彼女の依頼を蹴って砂多伏へ向かえば、そこでそれなりの儲けを出すことができる。しかし、断られた彼女が目的地に到着することはない。

 君が彼女の依頼を受けるようなら、君は幾度かの危険と相対することになる。しかし、それを乗り越えられるようなら、君は前者よりさらに多大な財を獲得する機会をえる。

 さあ、選べ)

 とりあえず奇病の可能性は置いておこう。詳細の内容はともかく大枠では予言のように聴こえる。となると……精神感応力テレパシーではなく未来視プレコグなのか。未来視者プレコグは視覚的に未来を予知するが、能力が微弱だと簡単な文章でしか予知できないとも……いや、違う。未来視プレコグは可変的な未来を一つしか視れないはずだ。こんな選択肢なんて表現で提示されるはずがない。

(君は物語の奴隷だが、君には選択肢がある)

 物語の奴隷? 選択肢がある? なんなんだ本当に。前半は全く意味が分からないし、選択肢があるなんて言われるまでもない。俺の行動は俺が選択するに決まっている。

 無視するか。こんなことに煩わせられるのは…………いや、まて、落ち着け。盲目的な否定はただの逃避だ。重要なのは如何にして目の前の現実に対処するかであって、どうやって逃れるかではない。整理しろ……何か聞こえているのは事実だ。それを否定するな、いま目の前にあることには合意しろ。拒絶は理性的な態度とはいえない。

 瞼を閉じる。暗闇は他の情報を締め出してくれる。そうだ、考えろ。

 言ってることはそうおかしいものではない。前半の物語の奴隷なる話はともかく、さっきの選択肢は現状と一致している。あのときの幻聴は苦しみから逃れるための甘く美しい言葉だったが、今聞こえているのはそうではない。

 仮定が必要だ。

 これは幻聴ではない。この声は俺でもこのガキの声でもない。声の主は特定の個人、もしくは個体である。

「オイッ」

「はい、何ですか」

(声に出す必要はない。思考するだけで意思は届く。こちらが君に伝えているように)

 もし本当に声に出す必要がないのなら……。

(君が声に出さぬうちに返事をすればいい)

 なるほど本当らしい。いちいち声に出さないですむなら助かる。

 ……俺はただ思考しただけで、この正体不明の存在に全てを見透かされ、コイツに不利益なことはしたくてもできない。思想統制、嫌悪、内心の自由、争い。人間は言語に依らず思考することはできない。対策を考えなければ……。

 不安は感じない。状況には腹が立つが声そのものにいやな感じはしない。なぜ? 直感? そんなものが信用できるのか。しかし直感は非言語的な経験の集束体ともいえる。確かなことは唯一つ、声に悪意も善意も感じないということ。……判断材料が少なすぎる。訊こう、何者なのか、そのほか諸々。情報を集めなくては。

 アンタ何者なんだ。

(その質問は無意味だ。こちらが何者なのかを知ることに意味はない。重要なのは君が選択することだ)

 無意味? そんなことはない。信頼性に関わる重大なことだ。

(こちらの性質に関して、君には裏をとるすべがない。故にどのような回答が返ってこようとそれを盲目的に信頼するしかない。そんな回答に信頼性はなく、君はそれを十全に信用することはない。よって回答する意味もない)

 ……なんだと。…………いや、確かに理屈としては正しい。だが、同時に俺に話しかけること自体が無意味ともいえる。信頼できない言葉を囁き続けられるのもいい迷惑だよな? 分かるかな、意味。

(重要なのは君が選択することだ。言説に信頼性があればそれで充分だろう。こちらの言葉に信憑性を持たせよう)

 ……言っていることの意味は分かる。現実とは合意しよう。

 最後にひとつ。アンタの声が聞こえているのは俺が何かを獲得したからなのか。未来視プレコグ精神感応力テレパシーに近い何かを。

(それは違う。君は何の能力も獲得していない。あるいは未来視プレコグとは手段近接しているが、目的が真逆だ)

 ……うんざりだ。曖昧で人を惑わせるような言い回しは嫌がらせでやっているのか? それとももってまわったような口調でしか喋れないのか。

(少女は君を見つめている)

 ああ、そうかい、無視か。そうか。いいよ、じゃあ現実とは合意だ。

 その通りだ。唐突に怒鳴り、そして黙り込んだ俺をじっと見つめている。誰だってそうするだろう。

(君には選択肢がある。

 君がこのまま無視し続ければ、三分後に彼女は念動力キネシスで小石を二つ、君の左脛に投げつける。

 君が今すぐに彼女に目線を合わせれば、彼女はすぐに目を逸らして、再び説明を求める)

 単純な二者択一。前のヤツと同じだ…………どうするかな。無視の選択肢はぶつける石の個数やぶつけられる部位と時間が具体的に指定されている。後半の選択肢は行動と結果が当たり前で、声との因果関係を検証するのが難しい。

 なら、答えは簡単だ。

 …………そういえばアンタへの返事には宣言のような言葉は必要なのか。

(必ずしもそうではない。回答の明言が必要でなければ行動で示せばよい)

 なるほど、じゃあこのまま黙っておけばいいのか。

 眼は開かない。考え込んでいる風に見せたほうがまだ自然だ。

 ……空き時間、尋問、情報、行動、判断材料……アンタはいまのところ、俺の質問にすべて答えてくれているが、これからの質問にもすべて答えてくれるのか。

(全てではない)

 へえ、はぐらかさないのか。まあ、この回答自体が嘘の可能性もあるが、そこまで疑っていてはキリがない。

 もしくはなにか制限があるのか。俺の質問を無視してはならず必ず回答しなくてはならない。さもなくば……。

 短く鋭い音、痺れのようなもの。

 左足に二度鋭い痛み。血は出ていない。よかった。そこまで加減知らずではないのか。足元に礫が二つほど転がっている。三分という時間は思ったより短い。

 予告の通りだ。しかも俺の自発的な選択だったのだから、仕組まれたのだとは考えにくい。となると、コイツの正体はともかく言動自体には信憑性がある。少なくともある程度の正確さがあると考えるべきだ。いいだろう。ひとまずそれは納得しよう。

 くそっ、それにしても痛い。小石をぶつけられて怒っているようなフリを……まあ、実際痛かったから若干怒ってはいるのだが……ともかく荒っぽい口調だ。

「痛ってえな。なにするんだよ」

「貴方が無視するから」

「だからってぶつけることないだろ」

「無視する方が悪いです」

「……ああ、そうかい。依頼について考えてたんだよ」

「どうするんですか。結論を聞かせてください」

「その前にもう少し聞きたいことがある。目的地が地路是ってことはわかった。それで具体的な目的は? あと期限なんかもきいておきたい」

「具体的な期限があるわけじゃないです。ただ、可能な限り早く。勿論、早く着けばそれなりの追加報酬があります」

 それだけ口にすると、これで説明は終わりです、とばかりに口を閉ざした。短いやり取りだが、それで充分だ。さっきの会話から分かったことが三つある。

 一つ目。可能な限り早くと言っているにも関わらず依頼に期限を設定しないことから、恐らく地路是に行ったこともなければ、位置やここからの道程ルートさえ知らないのだろうということ。護送の依頼は概ねの距離から日程を割り出し、報酬と期限を決めるのが常識だ。第一、そうしなければ報酬のぼったくりや定めのない期限を拡大解釈し牛歩や意図的な寄り道をするような輩もでてくる。

 二つ目。間違いなく何か事情を抱えていること。質問の片方にだけ答え、もう片方には答えようとしない態度は、言いたくないことがあると自白しているようなものだ。目的を告げることができないのだから、後ろめたい事情があるのだろう。

 以上二点にも関わらずどんな手段を取ってもでも契約を成立させようという意思が感じられない。いや、もっと言えば暴力に訴えてでも俺に車を運転させるべきだ。念動力者サイコキノにはそれができるし、実際にやられたこともある。たとえばさっきの手段を使えば1分ももたずに早すぎた埋葬で微生物のご馳走に、天然の弾丸を使うなら俺をばあちゃんでも見分けがつかない肉塊に容易く変身させることもできる。それなのに頼み方が乾いていて必死さがない。これが三つ目。

 では、不審な点があるからと依頼を断るのか。答えは否だ。この程度なら問題ない。もともと列車を使わず俺のような無頼漢チンピラ紛いに個人で依頼してくるような奴は多少なりとも人に言えない事情を抱えていて当然で、むしろ潔白な人間が依頼してくれば何か裏を疑うべきだ。金払いのいい上品な客を受注できたと喜び勇んでお送りしていたら、そいつは麻薬の売人だった……あの惨めな事件を忘れてはならない。検問でバレて大騒動の末、しばらく留置所に放り込まれた。怪しすぎる依頼は撥ねるにしても、なさすぎるのも考えものだ。

 だから、それはいい。考えるべきはあの声だ。確か引き受けなければ砂多伏でそれなりに儲けるが、引き受けずに地路是へ行けば大儲け。但し、砂多伏へ向かえばこいつは困り果てることになり、地路是へ向かえば危機が待っている。

 重要な判断基準は単純明快であるべきで、それは利益という言葉に集約される。

 さっきの二択は、それぞれ期待値と純利益という言葉に変換できる。前者には確実な中程度の利潤が、後者には相当の危険性とより多額の利益が見込める。

 このご時世、それなりに経験を積んだ人間なら誰でも危機回避を第一に考える。たった一回の失敗でも文字通り命取りになりえる。それを理解していないのは、よほどの強運の持ち主か、もしくはもう物理的に口をきけなくなっているかのどちらか。一度のちょっとした失敗が予想外の損失を招きシティに巣食っていた大金持ちが一夜に全てを失い、翌朝には首に縄をかけてゆらゆら揺れていたという話は珍しくない。

 考えるまでもない。しかし……あの言い回しはここで俺に見捨てられるともう他に移動手段にあてがなくなるという感じだった。困り果てる、と遠まわしな表現をしているが、それは実質死ぬのと同じだろう。ガキは比較的軽装だし持ち物も小さな手提げ鞄バッグらしいものが一つだけ。どう甘く見積っても3日以内に死ぬ。それは流石に……。

 そんなことを考えられるほど優雅な立場なのか。ここまで極端では無いにしろ、類似の状況で死にかけたことは何度もあるが助けてくれたやつはほとんどいなかった。金持ちでさえそうだったし、ましてや俺は貧乏人だ。特に理由がないのならいつものように利益を優先すべきだ。相手がガキだからと、情けをかけていては……。しかし……だからといって……俺だって昔は……だが……とはいえ実際に……。何か理由があるのなら今回くらいは。理由……規則、自分の規則、公的な規則、財、境遇、法律……法律?

 あっ

 特別措置法。あれがまだ生きているはずだ。

 馬鹿げた成立過程。

 あの頃この辺りでは「あえて危険に身を曝し、生を実感するための一人旅」という正気を疑うものが流行していて、実力も準備も不足した素人が未整備の道路や治安不安定の渓谷に乗り出し、当然多数の死傷者が出て問題になっていた。その対策として「危険地帯にある非熟練且つ未成年の渡航者を発見した場合、熟練者は速やかにこれを保護し一定の安全を確保する義務を生ずる」という要旨の法が成立した。立法の連中は自力救済不能な民間人の生命の危機を救うための法律だと言っていたが、救助費用削減のために俺たちみたいな根無し草を無償労働させようと考えているのは誰の眼にも明らかだった。

 効果のほどが疑わしいのはいうまでもない。そもそも、この手のバカは熟練者が通るようなまともで安全な道程ルートから遠く離れた危険な道をノロノロと無計画に進んでいるのが相場なのだから、発見されること自体が稀で大抵は誰にも見つからずひっそりと野垂れ死にするか秩序の外の住人に殺される。しかもその翌年には流行も治まって、従って法律自体も名実ともに意味喪失したが自動期限延長で改正されずに今まで残っているはずだ。

 実態がどうであれ存在している。

 俺も法学の徒だ。この法文は努力義務なんて甘いことは書いていない。保護義務と明記されているからには他に解釈のしようもない。俺はいかにも非熟練者らしいこのガキの一定の安全なるものを確保する義務がある。勿論、代償を受け取ってはならないという規定はないのだから、報酬を受けるとことも適法。

「いいだろう。連れてってやる」

 ガキは黙って俺を見ている。

 甘い判断をしただろうか……そもそも、ここまで考えなければ親切の一つもできないのか、俺は。けれど、もう決めたことだ。

 まんざら利益がないわけでもない。あの声を信頼するならば、この選択はある危険性を負ってさらなる利益に向かうための決意でもあるから。盲目的な親切ではない。自分のための選択だ。

「ただし、報酬の半分は前金としてもらうぞ。雑費は自己負担。あと野生生物の類がいたら追っ払うの手伝えよ。いいな?」

「はい」

「よし、じゃあ乗れよ」

 ガキは黙ってさっき見せた報酬のおおよそ半分を俺に手渡した。これで契約締結。もう親切なんて曖昧で甘い言葉ではない。今この瞬間、コイツを地路是へ連れて行くことは俺が報酬の代価として背負った義務だ。

 車に乗る直前、風が吹いて砂塵が巻き上がり、眼に入った。

 擦ると少し涙がでた。

………………3………………

 どの道程ルートをとるにしても、まず目指すべきは海果里カカリだ。

 道路と不整地を何のトラブルもなく走り続けそろそろ三時間になる。いつもの道、いつもの岩、いつものガラクタ、いつもの廃墟、いつもの太陽。デキの悪い映画のような景色は退屈極まりないが安全と安寧を意味するのだから、ガタガタ文句を付けるのは贅沢だろう。

 あれ以来、お告げのような声は聞こえていない。

 一体何だったのだろう。

 静かな車内……静寂の中で何も考えずに運転するのは性にあわない……納得のいくような結論を見つからない。あれは本当に現実の声だったのだろうか。もしかしたら、暑さにやられた脳が捻り出した幻聴だったのかもしれない。そういえば、最近独り言が多くなってきていたような気もする。あの時は確かに幻聴の類ではないと確信していたのに……もしかしたらこのガキも俺の妄想の産物なんじゃないだろうか。孤独をこじらせて脳が捻り出した幻覚かも……。

 ダメだ。

 右手を振る。バシッと乾いた音、右の頬と手のひらに鈍い痛みが広がる。それは危うい考えだ。頭を振る。もう一度、頬を軽く叩く。痛い。そうだ、痛い。痛みが靄を追い払ってくれる。

 空を見上げる。

 雲ひとつない。誰が見ても快晴で外気温は摂氏三十五度だが体感はそれよりも高い。車内は冷房装置のおかげでそれなりに快適だが外付け機材の故障が心配だ。

 良い冷房装置を買っていてよかった。蒸し焼きで内臓から順にこんがり焦がされて苦しみながら死ぬことを選ぶ度の過ぎた苦痛愛好者マゾでなければ、それがどんなオンボロであっても冷房装置だけは備え付ける、と車屋のオヤジが言っていたっけ。備え付けてないものは車ではなく棺桶と呼ぶべきだ。これはリュの言葉だったか。

 最新式熱源探知型の早期警戒機レーダーは休みなく勤勉に働き続けている。冷房装置に引けを取らないほど大切なものだし稼動年数を考えれば仕方ないとは分かっていても、すぐに納得できるようなぬるい値段ではなかった。本当に高かった。涙が出そうなほど高かった。割を食ったのは車本体で、居住性・操縦性はほぼ最低に落ち着き、いまガタガタ揺れる車で固い操縦桿を握り締めている。

 現在地は海果里から南に二時間程度の地点。この進み具合なら夕刻までにシティに入れるだろう。地図も頭に入っているから道に迷うような心配もない。早期警戒機レーダーからの警告もないし、安定そのものだ。全くもって安心。不安要素ゼロ。

 退屈。

 危機がないに越したことはない。しかし退屈は人間の精神を蝕み意識を喪失させることがある。ありていに言うと、つまり眠くなる。

「……そういえば、名前聞いてなかったな」

 累計五度目になる欠伸をかみ殺すと反射で少し眼が濡れた。

「アイです」

「へえ、変わった名前だな」

 あまり聞かない名前、少なくとも流行の名前ではない。かなり遠くから流れてきたのか、もしくは養育者が古風な名前を付けたがる変わり者だったか。

 アイはこちらを見もしない。そして、質問には答えたからいいだろ、と言わんばかりに黙っている。……車に乗せて以来この調子だ。

 会話が一往復のみで打ち切れられたのはこれで七度目になる。切断されて続かない会話は、まるで犯罪者の口を割らせるために尋問する下っ端の警官か、もしくは気難しい上司のご機嫌伺いする可哀想な年若い部下みたいだ。アイお嬢さんの辞書に返答や応酬という文字はないらしい。

 別に仲良しになりたいと思っているのではない。俺たちはただの依頼人と運送屋でしかなく特別親しくなって友情を育む必要などないことくらい重々承知している。だから会話の内容も私的領域プライベートに踏み込み過ぎない程度のものに抑えている。

 音楽再生機アクオもないこの車内で二人きり押し黙っているというのも居心地が悪い。ある程度の言語交流コミュニケーションはいかに乾いた関係性であっても必要なものだ。俺もコイツも一人で何でも解決できる超人ではない以上、災難に見舞われれば生存のためにお互いの助け合いが必要になることもあるだろう。そんなとき、阿吽の呼吸とまではいかないまでも、息を合わせて動かなければならないこともありえる。連携は信用と理解によってなりたつ。信用と理解は言語交流コミュニケーションを基盤に生まれる。一言も口を利いたことのない人物と世間話程度はできている人間とでは、連携の程度は格段に違ってくる。単純な三段論法だ。

 なのに黙っていやがる。

 俺が個人的に喋っていないと落ち着かない饒舌家だということを差し引いても、ここまで無関心で無思慮な態度を……。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 不快な高音。

 音源は早期警戒機レーダー。警告音。側面映像機モニター! 全天周囲オール・ビューに切り替えるまでもなく前方に質量のある物体があり、拡大せずともそれがネコチクであるとわかった。暢気に車の前方を横切っている。距離五十メートル。ネコチクの進行方向と逆方向に力一杯操縦桿を切る。遠心力で体が傾く。

 ネコチクはそのまま歩き去った。

 ……よかった。…………悪癖だ。ちょっと考えこむだけで周りが見えなくなる。どうにかしないと、大きな事故を起こしてからでは遅い。

 ゆっくりと車道に戻る。車体を大きく揺らしてしまった。思いのほか負担が大きかったらしく中々揺れは収まらない。ガタガタ不規則に振動する。アイは少しも動揺していない。澄ました顔で前方をじいっと眺めている。揺れる車内は、再び静寂に包まれた。といっても揺れに伴う騒音を除いた言語的な沈黙という意味だが。沈黙の中の騒音、騒音の中の沈黙。

「そういえば、念動力者サイコキノ以外になにか複合してるのか」

 ふと思い出した。穴が開くほど読み込んだ『適応者論概説』の最終章。

 ……高技能力レベル適応者アジャストは複合的であることも少なくない。例えば高技能力レベル念動力キネシスに低技能力レベル遠視力クレヤ、中技能力レベル未来視プレコグに同じく中技能力レベル精神感応力テレパシーといったように……。

 結局、読み込んで知識をつけても意味なんてなかった。

「何も」

「ふうん。で、因みに先天性ギフテッド? いや後天性プレゼントなわけないよな。あんな強い後天性プレゼントなんて」

「さあ、知りません」

「知らないってことないだろ」

「知りません」

「ふうん」

「…………」

「……なあ」

「はい」

「アンタ、俺と会話する気あるのかよ」

 アイは小首を傾げた。

「……さっきからしてるじゃないですか」

「へえ、そうかい」

 ありがたいお言葉を頂戴することができた。素晴らしいね。少なくともコイツが自分の非を自覚するまでは絶対に口などきくものか。この数時間のそれを会話と言って良いかは疑問だが、ともかく暫くは会話などしてやるものか。……温厚且つ理知的な俺でなかったら二度と口を利かないところだ。

 噛んでいた睡眠防止粘物ガムをゴミ箱に吐き捨てようとしたら外れて床にへばりついた。くそっ。

 運転は続く。

 くそっ。むかつく。

 揺れる。

 無声だが無音ではない。

 揺れる。

 車は進む。

 揺れる。

 おかしい。揺れは治まらない……いや、それどころか激しくなっている。

 不整地が原因じゃないのか。もうだいぶ舗装された道路にきているのに一向に収まらないのは不自然だ。そもそも不整地仕様でこの程度の悪路ならものともしないはず。

 くそっ、故障か。

「ちょっと停めるぞ」

 仕方ない。操縦桿を切り路肩に寄せた。

補助電ディエンがあるから冷房装置はつけっぱなしでいい。早期警戒機レーダーが何か言ったらすぐ俺に教えてくれ。いいな」

 アイは黙って頷く。

 発動機エンジンを切って外に出ると、生暖かい空気と強烈な日差しが俺を殺しにかかってきた。汗が噴きでる。肌がベトベトで気持ち悪い。作業意欲が音を立てて消えていくのが文字通り肌身に染みてわかる。機類室蓋ボンネットを開くと、嫌な熱気がムッと漂った。やはり発動機エンジンだ。合成液料が漏れているが、ほかに損傷箇所は見当たらない。ちょっと面倒だが、しかし直せないほどではないか。

 強挟器ペンチ、熱合成板、ねじ回し。

 それにしても、暑い。

 仮アテ、噴射冷却、拭き取り。

 汗が額から車体に流れ落ち、熱に焼かれて蒸発した。

 熱合成板の切り取り、焼付け、もう一度噴射冷却。

 ……終わった。

 休憩を挟みつつも、まともな企業なら安全管理上の危惧から絶対に野外作業などさせないような灼熱に間断なく焼かれるのは限りなく拷問に近い。なんとかなってよかった。出張修理なんて、想像するだけで身の毛がよだつ。

 大丈夫だろうけど念のため暫くは冷却装置を効かせて休めておこう。到着が予定より遅くなるが、まあ仕方ないか。

 ともかく、車に戻ろう。暑くてたまらない。

(君には選択肢がある)

「うぉっ」工具箱が地面に落ちて中身が散らばった。「あっ、くそっ、なんだよ」

 ……どうしてこんなときに……。

 午前中に聞いたのと同じ声。性別、方向、理由全てが不明。そして同じ切り口。

(前提が一つ。もうすぐ君たちの元に二体のイヌチクが襲来する。

 君たちが逃亡を企てればそれは成功する。しかし、発動機エンジンに負荷がかかり、次のシティに着く前に車は補助機能を含めて完全に停止する。

 君たちはイヌチクを迎え撃つこともできる。その場合あと十五分程度対策する猶予がある)

 落ちた工具を収納箱に戻すマヌケを無視する冷淡さも変わらない。間違いなく同一存在だ。

 幻聴ではないし記憶違いの類でもない。とすると……いや、後で考えよう。今は目の前のことだ。情報を集めなくては。

 もし逃走を選択したとして、車が動かなくなるのは海果里の検問までどのくらいの距離なんだ。

(答えられない)

 じゃあ、どのくらいの損害なのか教えてくれ。俺には修理不可能なほどか。

(答えることはできない)

 埒が明かない。知らないのか、それとも情報を与えるのに何か制限があるのか。

 どうする。補助機能を含めての停止となると冷房装置も使えなくなる。それは避けなければ……すぐに決めるべきだ。ならば…………よし。

「アイ! ちょっとでてこい」

 相変わらず無表情でぬっと顔を出した。

「どうしたんですか」

「いいか、よく聞け。今から十分以内にイヌチクが二、三体襲ってくる。だから」

早期警戒機レーダーは何も言ってませんよ。何故そんな」

「悪いけど黙って聞いてくれ。いいか大事なことだ。銃器は一丁しかないからこれを使って」

「逃げないんですか。迎え撃つ必要なんて」

「確かにイヌチク程度だったら逃げれなくはないが、いまは無理なんだよ。さっき見たら発動機エンジンが破損していて、これ以上負荷をかけるような走り方をするとシティに着く前に完全にイカれちまう。発動機エンジンの様子から考えて三十分くらいは車を動かさん方がいい。だから迎撃の判断したんだ。いいな、時間が無いんだ。ちょっと黙って聞いてくれ」

 アイは一呼吸で余計な言葉を飲み込めたらしく開きかけた口をすぐに閉じ、小さく頷いた。

「確認しておきたいことがいくつかある。念動力キネシスは生命体に直接干渉することはできないよな?」

 アイは頷いた。……となると、イヌチクを宙吊りに固定し確実に射殺する、というわけにはいかない。ならその辺に石を弾丸にして……いやイヌチクの皮はその程度では貫けない。アイの念動力キネシスで直接攻撃するのは現実的じゃないない。何か罠を……イヌチクのような低知能の生物ならば行動を読むことは難しくない。

 周囲は車を中心に半径十キロほど平地が続いている。ちょっとした凹凸はあるが遮蔽物になりそうなものはない。待ち伏せや高所からの狙撃は不可能。残る選択肢はアレになるが、そうするにしてもアイの能力の程度を把握しておく必要がある。

念動力キネシスはどのくらいもつ?」

「対象物の質量にもよりますけど、大概のものならば一時間程度支え続けます」

「砂の類ならどうだ。あの男を埋葬したとき、かなりの量を一度に操作できていたよな。どの程度の量を、そうだな一時間くらい支えられる?」

「あの程度ならばいくらでも」

「どのくらい集中力が必要だ。並行してどの程度の作業ができる?」

「たいていのことはできます」

「……よし。それなら大丈夫だ。罠を張る。簡単な話だ。いいか、よくきけよ……」

………………4………………

 相変わらず日差しは強い。アイは車内で早期警戒機レーダーを見張り、俺は銃と遠望器スコープの点検。そう決めたのは俺なのに腹立たしい。厳戒まで感度を上げているから警戒範囲に熱源が現れればすぐに伝えてくれるだろう。

 銃も問題ない。光媒介液メディウムの残量は八割で光浴も十分。試し打ちも問題なく、走った光が小石を黒く焦がした。遠望器スコープも正常に機能している。

 真っ赤な陽が空の頂点で憎々しいほど燦々と輝いている。

「六時に一体。速度、四十から五十」

 よくもまあ、こんな時にも冷静だ。場末でよく見かける競走賭博場レース・パリーのヘボ実況のような棒読み。危機が迫っているのが分かっているのか。遠望器スコープでもぼんやりとそれらしいのが見えるだけで、まだ狙える距離ではない。一体だけ。もう一体は別の方向から来るのか。

「もう一頭はッ」

「まだ見えません」

 腹立たしいが視界の都合で日陰から出ざるをえない。車から離れイヌチクを正面に据える。灼熱で少し視野がボヤける。距離が遠くまだ黒い影にしか見えないが、アレが予告のイヌチクの片割れだというのは間違いない。落ちる汗が地面に吸い込まれていった。眼が痛い。睫毛からも汗が滴る。

 距離を計れ。撃ちそこなうな……。

 徐々に全身が見えてきた。

 全長は二メートル前後。たいして大型ではない。このくらいなら四メートルはおろか三メートルも跳べないはずだ。まあ念には念を入れるが、ひとまず罠が機能する最低限の前提は満たせた。

「十二時にもう一体。速度、六十から七十」

 もう来たか。一体目はそろそろ狙撃地点に到達する。十二時方向なら、二体目は逆の方向からで、しかも一体目よりも速いが、大丈夫。間に合わせる。大丈夫だ、落ち着け。ともかく、一体目を仕留めることに集中しろ……。

 はっきりと姿が見えてきた。

 何度見ても慣れない、不気味なイヌチクの瞳。早期警戒機レーダー写眼機レンズのように単調で、生気や感情の類を全く感じさせない作り物みたいな眼。顔はいかにも生き物らしいフサフサの毛だらけなのに、目玉がぎょろぎょろ動き回るというのがまた不自然で気色悪い。体毛は柔らかいが皮膚は異常に硬い。純物理的な打撃で撃ち抜くのは難しい。

 足音が聞こえてきた。

 四足をしなやかに動かし直進してくる。……落ち着け。特性を確認しろ。何か見落としがないか。……性質は哺乳類より虫の走性に近い。光全般を嫌い可能な限りそれを避けようとする傾向がある。負の走光性をもつ珍しい動物。生態学的な研究は進んでいないが、複雑で強靭な消化器官を保有し雑食でどんな動物の肉も食うことができる。未解明だが特有の嗅覚があるらしく、どこからともなく現れては旅人を襲撃する。基本的に夜行性だが、どういうわけか昼に活動する個体もあるらしくこのイヌチクもその類なのだろう。

 大丈夫だ、大丈夫。落ち着け……。

 イヌチクはよほどの障害物がない限り標的物に向かって直線的に突進する。それ以外視界に入ってないような単純な動きをするからこいつらを狩り殺すのは簡単だと、したり顔で解説する奴もいるが、連中はイヌチクの異常な反射神経を理解していない。ただの一撃でイヌチクの脳髄を正確に打ち抜ける奴なんてこの世に存在しない。それも負の走光性から光線銃には異常な速度で反応する。旧世代オールドの実弾銃であれば的中するかもしれないが、それではイヌチクの皮膚は貫けない。しかも射殺するならば、あの小さな額に収められた極小の脳髄に命中させる必要がある。生命力が強いらしく多少の出血では死なないし、痛点が極端に少ないのかボロボロになっても怯むことなく獲物に向かってくる。

 普通は拡散形式に面で攻撃する。光媒介液メディウムに余裕があれば仕損じることはまずない。反射神経が良いといっても限界があるし、知能が低く生命を保全するような工夫のある動きをとらないからだ。ただ、その場合どうしてもイヌチクの接近を許してしまうことになり、失血死が遅れれば物理的な打撃を受ける可能性がでてくる。だから、罠だ。一流の念動力者サイコキノがいるのだから、それを活用しない手はない。光媒介液メディウム代だって馬鹿にならないから消費が激しい拡散攻撃は可能ならば避けたい。

 イヌチクが近づいてくる。もう肉眼で見える。

 大丈夫だ、見落としはない。うまくいく。

 足音。タタラッ、タタラッ、規則的な乾いた音。四本足を軽快に動かし、真っ直ぐ迫り来る。改めて罠の位置を確認し発射を頭の中で繰り返し思い描く。

 大丈夫、落ち着け。

 迫る。徐々に姿は大きくなる。足音が少しずつ鮮明になる。身震い。恐怖。指が震える。怖い。失敗は……あの質量を近距離で阻む手段は無い。だから失敗は……そんなに難しい仕事じゃない、落ち着け! ……あと少し、もうちょっと、秒読み…………五、四、三、二、一。

 射出釦トリガーを叩く。

 銃口から光の矢が飛び出した。線に見えるが違う。光線を射出しているわけではない。圧縮された光子の塊。移動の連続体が結果として線状に見えているだけ。光子式銃器。光。直線を描く。

 イヌチクは……射撃とほぼ同時に跳躍した。進行方向を変えず飛び上がる。射線は足元を通り抜ける。俺が打ち出した一撃はイヌチクにかすりもせず硬い地面に着弾し土塊を焦がした。

 イヌチクは真っ直ぐ俺を見つめながら着地した。

 着地しようとした。

 前足から地面に着地しようとしたが叶わない。大地は泡のように消失し陥穽が顔を覗かせる。イヌチクは体勢を崩しそのまま前のめりに崩れ落ちる。気色悪い叫び声を残して深い穴底へ落下していった。

 やった。

 成功だ。

 ……単純な罠ほど上手く活用すれば効能は高い。

 構造は単純明快。車から半径二メートル、そこから数えてさらに七メートルほど円状に落とし穴を作っている。車を中心にしたドーナッツ状の落とし穴だ。あらかじめその範囲に穴を開け、地面に擬態した砂の生地を念動力キネシスで浮かせておく。地面らしく擬態するのは難しいことではない。

 普通のイヌチクは七メートルの穴を飛び越えられはしないし、そもそも落とし穴の存在を察知できるほどの知能はない。落とし穴より一メートル手前からイヌチクの足元を狙撃する。あの単純明快なケダモノは正面からの火線を跳躍で回避しようとするはずで、これは俺の経験上ほぼ間違いないと断言できる。罠の少し手前から飛ばせれば確実性が増す。

 落ちたやつは依頼人様に生き埋めにしていただく。一発分の光媒介液メディウムで一体を仕留めることができる極めて経済的な作戦だ。

「うしろ、あと、頼む」

 車の前方に回りこみ、機類室蓋ボンネットの隣に位置取り遠望器スコープを覗く。思ったより近づいている。既におおよその大きさが推測できる。さっき仕留めたのよりは速いから当然か。

 …………え。

 呼吸が止まった。息が、吐けない、吸えない。苦しい。

 うそだ。

 寒気。後頭部に震え。目測でもわかるほどの異常な巨体。信じられない。三……いや四メートルはある。こんな個体は見たことない。

 巨体を震わせ大地を踏みしめ直線的に猛烈な勢いで突進している。他の個体とは明らかに違う筋肉質な脚、余分なものが何ひとつ付いていないしなやかな胴体、そして真っ直ぐ俺を見つめる黒くて虚ろな瞳。

 瞳、二対の目玉。

 心臓を握られたような感覚、恐れ。首の根元が絞められたような息苦しさ、驚き。美しさ、畏怖と畏敬。重い足音、地が揺れる、振動。

 伝えられた速度より速い。違う、加速している。予定より早く撃ち込まなければ。あせるな。

 力一杯頰を叩いた。意識の霧を振り払い目の前の現実に集中するために。

(君には選択肢がある)

 遠望器スコープを投げ捨て銃を構えた瞬間、声が聞こえた。

(このまま落とし穴作戦に拘泥すれば、五割の確率で一つの生命が失われるだろう。

 落とし穴作戦を諦めて射殺に切り替えれば、それが成功したとしても光媒介液メディウムを全て使い切ってしまう)

 射出釦トリガーに指をかける。

 もう別の判断をするような余裕はない。迷いは失敗を生む。速度を増した大型のイヌチクはもう狙撃点まで迫っている。もう判断を変える余裕は無い。

 射出釦トリガーを叩く。

 光が走り、狙い通りの位置に着弾した。イヌチクは想定通り跳ねて光線を回避する。想定通り跳躍した。

「やった!」

 成功した! 落とし穴に……。

 落ちない。

 跳躍は短かった。光線を回避するのに必要最低限でしかない。一息走り、ちょうど罠のギリギリで大きく跳び上がった。まるで、そこに落とし穴があることをわかっているかのように。

 胃液が逆流する。失敗、失敗、失敗。この化け物は落とし穴を飛び越してくる。

 アイはどこに。作戦では一体を処理したらすぐに助手席に戻って早期警戒機レーダーを監視することになっていたが、まだ一体目のイヌチクの処理が終わらず車の外にいるのか。

 時間が無い。とにかく保護を……。

 いた。アイはすぐ後ろで、虚ろな視線を大型のイヌチクに投げていた。

「バカッ、退がれ」

 無言でゆっくりと後ろに下がった。バカガキ、死にたいのか。安っぽい服を掴む。急がなくちゃならねえことも分からないのか。

 逃避。後ろへ、距離を……それも数十秒で終わった。

 車の後部を通り過ぎると、後方で嫌な振動音がした。見なくても何がそこにいるかはわかる。もう行き止まり。これ以上距離は取れない。

 アイは落とし穴を装うのをやめた。深い奈落が口を開いて待っていた。

 どうする。

 ……アイに穴を埋めさせるか。無駄だ。イヌチクの方が圧倒的に速い。いずれ追いつかれる。なら渡った時点で再び穴を開けてイヌチクを閉じこめれば……駄目だ。あのイヌチクはそのくらいは飛び越えられるし、それに車を失うことになる。もしイヌチクが俺たちよりも車の方に気を取られ、その隙に逃げおおせたとしても、この荒野で移動手段を失った俺たちを待っているのは、脱水や過労による緩慢な死だ。

 どうする。……射殺だ。今からでも遅くない。撃ち殺す。拡散形態に……手が震える。できない。だめだ。間に合わない。来る。どうする、どうする。イヌチクの瞳。どうする。どうする。

 四文字が乱舞する。どうする、どうする、どうする、どうする。

 イヌチクは着地ののちに一息つき、そしてまた前傾姿勢をとった。一息に襲いかかるつもりだ。

 やるしかない。射殺しろ。撃て。

 できない。できるわけがない。ここで喰われる。喰われて……。どうにかコイツだけでも。

 左手でアイの服を引っ張った。前に出て、こいつを後ろに下がらせる。

 アイは動かない。

「下がれってのが分からねえのかッ。早く逃げろ!」

「それ貸してください」

 返事をする間もなくアイは俺から銃を奪いとった。

 俊敏に構えイヌチクを正面に捉える。

 撃った。

 放たれた光線はすでにこちらに向かって走り始めていたイヌチクの足元に向い、イヌチクは当然短く跳躍してそれを回避した。

 瞬間、アイは銃を空中のイヌチクに向ける。即座に偏差射撃の体制に移り、そして空中のイヌチクを狙い、射出釦トリガーを叩く。

 閃光が走る。

 額に小さな穴が空き、ドスッと重たい音が聞こえ、イヌチクは墜落した。

 動かない。

 当たった……?

 アイは銃を俺に押し付けるように返すと、無感動にイヌチクに手をかざす。アイの掌に呼応してイヌチクは舌をだらりと垂れ下げたまま、持ち上がり、深い穴の底へとゆっくり落ちていった。その上に音もなく土砂が降り積もる。

 …………終わった……?

 理解、そして身体から力が抜ける。終わった。助かった。車に歩み寄り車体に体を預け小さな凄腕の狩人をみやる。

 アイは硬い表情のままそこに立っていた。手元の銃口からは空気の焦げた臭いが漂っている。

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