誰か―サンプル―

 

 

 視界は暗闇を抜け出し、ユラユラと揺れながら、次第に焦点を合わせていった。

 眼に映ったのは、白い壁。彼は自分が見知らぬ空間にいることを自覚した。広さは四畳半程度で、天井は高い。足場なしには届きそうにはない。照明はシンプルなものが一つだけ。ただそれだけで、部屋の中は異様なほど明るい。

 部屋の中に家具の類はない。ただ、部屋の中央に突っ立っていた彼を除いて、そこには何も存在しない。彼は部屋を歩き回ったが何も見つからず、当然そこにあるべき扉すら存在しないことのみを発見した。彼は自分の右手にある壁に近づき、触れた。膝を曲げてしゃがみ、床にも触れる。しかし床の材質や壁紙の種類は判別できなかった。ただ冷たくもなく暖かくもない。ツルツルもザラザラもしていない。同様に室温も高くも低くもない。正方形の箱のような部屋。

 彼は自分の上衣を掴んだ。一般的な薄手のシャツのようだ。部屋の風景とは逆に黒い。下穿きも同じように黒かった。それ以外の衣服は身につけていない。

 最後に手がとどく範囲で自分の体を撫でる。自分の記憶の中にある自分の肌触りと全く同じものだった。

 彼は混乱していた。環境を認識したことによってソレは言語化され、彼の体の中を駆け巡った。

 何だ、一体、どうしたのだ。明日も仕事なのに、どうしてこんな所にいるのだ。明日は早出で公売手続きの準備をしなくてはならなかったのに。

 苛立ち、不安、焦燥。混合物が彼の身体でグツグツと沸騰する。

 ……もしかしたら呼びかければ応じてくれるかもしれない。彼は無為に耐え切れず口を開く。

「ンン。あー。そのー、えー、誰かいますかあー」

 静寂。何の反応もない。……しばらく間をおき、再び口を開く。

「おーい。誰か。おーい、おぉーい」

 叫びながら壁を叩く。コツコツコツ、と当たり前のような音がした。段々と強く叩いてみるが、音がコツコツからドンドンに変わっただけだった。壁は分厚いのか、それとも薄いものなのか判然としない。何ら反応がない状況が続き、やがて叫び疲れた男は壁を叩くのも声を上げるのも止めてその場に座り込んだ。

 疑問が湧き出る。

 一体何なんだ。私が一体何をしたと言うんだ。なぜこんな目に、くそっ。……身代金目的か。いや、私が大して金持ちでないことくらい調べればわかることだ。となると、殺害目的か。いや、私には殺したいほど憎いやつがいない。そしてそれと同じ文脈で、私を殺したがるほど憎んでいるやつに覚えはない。

 答えは出ない。

 あっ、と男は声を漏らした。もしかしたら、これ夢なのかもしれない。それならこの状況にも説明がつく。こんな場所に閉じ込められていることも、そもそも扉のない部屋の中にどうやって私を放り込んだのかということも。なるほど。作りの甘いところも、夢らしいわけだ。そういえば、夢の中で自分が夢を見ているってことを自覚することがあると聞いたことがある。なんだったか、確か……そうだ、明晰夢だ。

 彼は膝を叩いた。

 言葉に出さず、彼は考える。となると、どうやって夢から覚めるか、。それが問題になるな。彼は唸る。これもどこかで読んだことがある気がするが、どうしても思い出せない。

 男はしばらく悩んで、そして思い出すのを諦めた。

 とりあえず、ここは夢だ。俺は明晰夢を見ている。それだけ分かれば十分だと分かりに男は大きく頷いた。

 結論はでたが、だからと言って事態が好転するわけでもない。しかし、妙に彼は落ち着いていた。納得は人の心を落ち着かせる。それが真理であるか否か、ということはさして問題ではない。先が見えないことへの根源的な恐怖を和らげることが納得の最大の効用なのかもしれない。少なくとも彼にとってはそうだった。彼は考えるのをやめて視線を宙に遊ばせた。どちらにしろ夢ならいつか覚めるのだから、と。

 無為の時間が流れる。

 男の瞬きが数千を数えた頃、彼は胡座をかいたままモゾモゾとしだした。そしてそれからしばらくすると立ち上がって狭い部屋の中を落ち着きなさげに、ウロウロと歩き始めた。部屋を三周ほどすると、一度立ち止まり、二度深呼吸をし、再び歩き始めた。彼は壁と床を叩いて回り、天井に手が届かないかと跳びはね、扉の痕跡がないかと再び壁という壁を舐めるように調べ回す。

 そうやって過ごし、その全てが無駄だと悟ると、一瞬だけ顔が青くなり、そして顔を赤らめ、叫び始めた。

「おおーい。おおおーい。おおーいい。誰かぁ、誰かッ!」

 声は響かない。反響もしないが、篭りもしない。しかし、彼は続ける。

 どのくらい時間が経過したのか、彼には判らない。彼には時間の感覚がない。時を告げるものはそこにはなく、そして時を推測する術もなかった。

 行為は循環した。彼はルーチンワークのように、それを繰り返した。

 調べ回り、叫び、そして「いや、いつか夢は覚めるのだから大丈夫だ」と口に出して自分を納得させ、そしてまた堪らなくなって部屋の中を歩き回り始める。

 繰り返した回数など記憶してはない。足が痛み、喉は枯れ、ただ待つことに飽き、痛みが引けば歩き、調子が回復すれば叫び、心落ち着けばまた胡座を組んだ。客観的な経過時間は解りようが無かったが、彼の主観的な経過時間は無限大に近かった。

「誰かあぁ、話して。俺に……なんでもいいから、お願い。誰かぁ…………おかしい。何で俺がこんな目に。意味がわからん。夢なら早く覚めてくれよ。私をこんな目に合わせる理由なんて無いだろ。そんな権利ないだろ。もう、やめて、本当勘弁して……僕は、もう、もう、もう……いや夢なんだから覚めるだろ、いつか。だから心配なんてしなくていい。座って待ってよう」

 繰り返す。

 音がしないことが不安だった。何でもいいから、自分が知っている言葉を耳に入れなければ、発語すらできなくなりそうで、怖かった。だからそれは言葉となって口から漏れ出ていた。思考は荒波と化し、次第に沼となる。

 彼は目を瞑った。

 視界が暗闇に浸り、焦点は存在しなくなる。

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