白紙の空間へ―サンプル―

 

 

(零)

 人は年月の中で生きる。その一瞬しかない〈現在〉を生きる。その枠の中で人は成長し、退行し、停滞する。産まれ、育て、死ぬ。経験は繰り返されることはない。二度と戻らぬその一瞬を人は生きる。

しかし、その理から外れた存在が、この時空に一人。

 

 

――――

 空が高い。そして風も心地良かった。真夏の季節、それも雲一つない晴れ空にしては風が冷たく、体感温度はあまり高くなかった。だからなのだろう。俺は寝坊していた。

 今日の講義は10時20分からで、俺が目を覚ましたのは10時ジャストだった。時計を見た瞬間、驚きで跳ね起きた。まさか二つのアラームを無視して眠りこけているとは思いもしなかった。しかし、この時間なら急いで支度し最短コースを全速力で行けば、まだ間に合うかもしれない。その論理的必然性によって、俺は今、必死になって自転車のペダルを漕いでいる。

 よりにもよって科学史概論の日に、と俺は三度目のカーブを曲がりながら口を噛んだ。あの教授は……いや准教授だったか……どちらだったか忘れたが、ともかく科学史概論担当のアイツは一秒でも遅刻しようものなら絶対に教室に入れてくれない。しかも一回でも講義を欠席すれば、それがどんな理由であろうと単位は与えないという公平かつ高潔なスタンスで学生の間で非常に評判の良い人物なのだ。どう考えてもシラバス違反だが特段問題にならないあたり大学では結構な権力者なのかもしれない。

 カチャカチャと音を立てて首に下げられたペンダントが揺れる。

 流れ落ちる汗が目に沁みる。俺は必死にペダルを回す。既に息は上がり、動悸が激しい。ただでさえ体力には自信がないのに、季節柄ご機嫌な太陽の光は俺からなけなしの体力を嬉々として奪い去っていく。足が石下駄を履いているように重い。……暑い。

 再び角を曲がると、最後の……つまり大学に至るまでにある唯一の……信号が見えてきた。青色が瞬いている。

 ……あっ、ダメだ。もう間に合わない。

 信号が赤に変わるのを目の当たりにしながら、そう理解した。チラリと腕時計に目をやると、ちょうど長針が二十分を指したところだった。じゃあ、信号に関係なく間に合いはしなかったわけだ。そして今期の科学史概論の単位を落としてしまうことも確定で、俺のこれまでの出席はすべて無駄になり、ついでに今日の全力疾走も徒労に終わった。

 全身から力が抜けおちる。

 ため息が零れる。内臓を口から抉り出すような大きなやつだ。俺はハンドルに頭を埋めながら近くの公園に向かってユルユルと歩き始めた。疲労感と虚脱感が活力を奪い去り、活動の意欲は微塵も残っていなかったが、それでも暑さに対する防衛反応は健在らしい。このまま路上で呆然と日差しを浴びて熱中症になる愚だけは避けることができた。

 五分程歩いた先にちょっとした公園があった。硬直した頭を抱えたまま、俺は木陰のベンチに倒れこんだ。

 ベンチが軋む音、俺は身体を預ける。

 ……まあいいか、と思えるようになったのはそれから十五分以上経ってからだ。間をおいたことで、だいぶ落ち着くことができた。回転を止めていた脳が活動を再開し、単位に関して算盤を弾くことができた。よくよく考えてみれば、取り返しがつかないミスではない。

 ちょっと気持ちが晴れてきた。どこか、進級が不可能になったような錯覚に陥っていたようだ。そこまで深刻な話ではない。そう思うときが晴れてきて、気力も戻ってきた。

 木陰にいるとはいえ、やはり暑い。正午に近づくにつれて陽光も強くなってきた。どこか涼めるところに行くべきだ。……となると、できればクーラーの効いた所がいい。そういえば朝飯も食ってなかったから腹も減ってきた。何か食べてられるところがいいな。クーラーが効いていて飯も食える場所。どうするかな…………そうだ、珈琲の樹だ。あそこならクーラーだって効いているし、軽食も結構美味い。何より冷えた空間での熱々のコーヒーは疲労回復に最適だ。

 というわけで俺は大学から少し西に外れた喫茶店に向かって再びペダルを回し始めた。自転車でなら三分もかからない。

 

 

――――

(理論1)

 J・フィニイ氏は、その著作の中で「衣装・生活様式等を完璧に模倣し過去のものと合致させることによる擬似的な自己催眠によって過去へと移動することができる」という旨の時間論的記述を残している。これは「思い込めばそれが現実になる」という類の荒唐無稽な世迷言であるともとれるが、私はこの記述が〈時間〉という概念を二つに分けている点に注目したい。客観的事象として存在する〈時間〉と個人に内在する主観的な〈時間〉の二つである。便宜上それぞれを〈外的時間〉〈内的時間〉と呼称する。

 この〈外的時間〉であるがこれは定義上、弛まずに一定の間隔で漂い続ける存在であると言える。有史以前から確固として存在しており、またこれを言語化乃至概念化できたのは、人類史上最大級の発明といっても過言ではないだろう。

 一方、〈内的時間〉は客観的に存在しているわけでも、人類の偉大な発明品であるわけでもない。それは人類各個人が備え持って生まれた資質であるというべきだろう。極めて個人的な事象であり、またことによっては一定の間隔をもって未来へ進まぬこともある。睡眠・記憶障害・好悪による事象への認識格差などの例を見れば、それは明らかである。

 通常〈内的時間〉は〈外的時間〉に従う。これは〈外的時間〉が〈内的時間〉を内包しているからであり、換言するならば〈内的時間〉は〈外的時間〉を前提として成立しているからである。

 具体的案件として「睡眠」を例に取ろう。人間は睡眠をとっている間、その具体的時間をハッキリとは認識してはいない。つまり、睡眠中に〈内的時間〉は停止しているのである。しかし〈外的時間〉は人間が認識しておらずとも一定に進み続ける。そして目覚めた我々は、睡眠によって生じた両者のズレを〈外的時間〉の方へと合わせるよう調整する。主観的に三分しか経っていないからと〈外的時間〉で経過した八時間を巻き戻そうとするものはいない。

 そしてフィニイ氏の最も特異な点はこの主従関係を逆転させたことにある。フィニイ博士は〈内的時間〉の恣意的な逆行に〈外的時間〉を従わせる。

 この理論を馬鹿馬鹿しい、と一笑に付した者は愚かだ。所詮常識などというものは不変の真理などではない。ガリレイの発言にみるまでもなく、常識などというチンケなものに囚われることは時によっては罪悪ですらある。

 我々は先の〈外的時間〉と〈内的時間〉の主従関係を無意識のうちに定説化し、それが疑わざる真実であるかのよう認識しているが、それには誤解がある。少なくともそれは永遠不変の真実ではない。

 私は両者の一方的な主従関係は認めない。しかし、両者の牽引関係については認めるにやぶさかではない。自然状態において、と但し書きがつくが、両者は同方向に繋がれているのだ。だからこそ〈内的時間〉と〈外的時間〉のズレを修正できるのだ。

 では、もし〈内的時間〉を〈外的時間〉から切り離すことに成功したらどうなるだろうか。そうなれば我々は主観と関係なく未来へと定速で進む〈外的時間〉と自己の〈内的時間〉とが前後にズレてしまい修正することすら覚束なくなるだろう。なお、〈時間〉という概念が「漂う存在」であるからには、それをベクトルのように表現するのは誤りであるが、ここでは理解の促進のためにあえて擬似的なベクトルとして表現する。

 さて、両〈時間〉が分離すれば必然として恐慌が起きるだろう。我々の生活基盤が崩れ去るのだから。このような混乱的状況に意味はない。しかし、もしこの〈外的時間〉から分離された〈内的時間〉を固定した上で、〈外的時間〉のベクトルを未来から過去へと変化させることができるなら、どうだろうか。牽引状態で〈外的時間〉を操作できたとしても〈内的時間〉もそれに引っ張られてしまい意識を保つことができない。しかし、そこから解放された状況で操作できればどうだろうか。そして〈内的時間〉を固定したまま〈外的時間〉のみを逆行させるのだ。

 それは即ち近似的なタイムマシンとして作用するだろう。

 となると〈内的時間〉を停止させ〈外的時間〉を任意に操作する技術が必要となるが、その点に関して私は既に理論を完成させている。

 以下において、実務的な技術理論を述べる。

 

 

―――

 俺は彼女に目を奪われた。

 全くの偶然だった。しかし、ある意味では必然でもあった。俺がこの日、この時、この店に入ったのは全くの偶然・・・・・・・だったが彼女を見つけたのは全くの必然・・・・・・だ。

 ライトブラウンのショートボブは涼しげで、そのほっそりとした輪郭線と調和していた。遠目から見てよく分かるキレイな人。優しげな顔つきをした彼女は入り口から少し離れた二人掛けの席に一人で座り、宙空をただぼんやりと眺めていた。

 ただそれだけでも人目を惹くには十分だった。純粋な容貌……ありていに言えば、つまり顔の造形だが……その端正さに加えてもう一点、彼女には人を引きつけてやまないものがあった。

 どう考えても過剰としかいいようのない肩パットに加え棘のような装飾品が付いていている革ジャン、下は同系色の厚めのジーンズ。

 攻撃的で奇天烈な服装……とは思ったが、俺はファッションに明るいわけではないから、それが所謂オシャレであるか否かの判断はできない。

 かつてこの国で肩パットなる代物が流行っていたことは知っているが、二〇一二年現在ではその残滓も無ければ再流行の兆しもないはずだ。手違いでバブル期からタイムトラベルしてきた過去人かな、とそんなバカげたこと考えしまう。

 いやコスプレかもしれない。そう思いついたのはつい先日漫画喫茶で読んでいた世紀末バイオレンス作品やその元ネタになった映画のファッションを思い出したからだ。しかし、こんな真昼のド平日に、若者といえば大学生程度しか見当たらないような平均的田舎でコスプレ系のイベントが催されているとは考え難い。個人でやっているなら尚更わからない。こんな人の集まらない場所でコスプレをやるものなのか。

 もちろん、俺が詳しく知らないだけで、コスプレとは必ずしも人が集まるところでやるものではないのかもしれないが、どちらにしても選択したテーマは客観的に見て彼女にマッチしていないと言わざるをえない。コスプレであっても個人的趣味であっても、もっとふんわりとした系統の服の方が似合うはずだ。

 しかし、とも思う。ファッションは他人のためにするものではない。彼女がその系統が好きなら服飾の統一感はあるのだから、そういう意味ではこの服装は何ら間違っていない。

 彼女への第一印象はこんな感じだった。

 そんな強い印象と長ったらしい心中の講評を伴って、俺は席に着いた。いや、着いていたらしい。俺は気がついたら席に座っていた。それも、彼女が座っていた二人掛けの席に。

 瞬間、反射的に体が跳ね上がった。

 寝起きを含めてこの短い間に二度目になるか、と妙に冷静な感情が湧き上がってくる。狂乱と冷静の両面が俺の中に分離して存在しているかのような感覚。パニックは思考を阻害し、頭に霞がかかったようだった。

 彼女はそんな俺を尻目にマグカップに口をつけつつ、どこか楽しげに俺の方を見ていた。

 俺を見ている。

 理解した瞬間、顔から火やら湯気やら血潮やらが吹き出しそうになって、慌てて視線を落とすと、手元にマグカップがあるのが目に入った。頼んだ記憶はないが、手元にあるのだからおそらく俺の注文だ。俺はこれ幸いと手を伸ばし、震える手で一口啜る。まだ熱いコーヒーが舌に沁みて喉を灼くように通っていく。若干むせたが、その刺激は薄靄のかかっていたような意識を少しは明朗にしてくれた。

 だからといってすぐに事態を理解できるわけではない。

 全く思い出せない。一体俺はどんな顔して、何を言って、どうやって、彼女と同席したのだ。店内には俺と彼女しか客がいない。これほどガランとした店内で突然見知らぬ男が同席を頼むことが、いかに胡散臭い行為であるか、誰にでも容易に想像がつく。

 別に硬派を気取るつもりはないし極端に女性との接触に慣れていないわけでもないが、胡散臭さがつくほど軟派になりたいとは思っていない。この場合、軟派というより空気が読めない男といったほうが正しいかもしれない。自己嫌悪と羞恥心で脳が溶けそうだ。

「若鶏のチキンサンド、でしたね」

 突如男の低音声が正面から聞こえてきた。視線を上げると、無愛想なマスターがサンドイッチの載った皿を持ってきていた。無意識の間に軽食の注文までやっていたらしい。俺は軽く会釈をしてオシボリで手を拭きながら、内心ホッとした。

 これで彼女以外に意識を向ける対象ができて、それは俺に対応策を考える時間を与えてくれる。目の端に写る彼女をできるだけ意識しないようにしながら、チキンサンドに喰い付いた。

 サクッとした軽い食感。

 いつもながら、悪くない。

 一口噛んでそう思った。味の方はソコソコ。しかし、過不足ない食感は程よく食欲を増進させてくれる。咀嚼して飲み込み、二口目、三口目と続ける。ここのチキンサンドは、味自体は平凡だが値段の割に肉厚なのがうれしく、比較的健啖家な俺はこの店では必ずこれを注文している。そしてチキンサンドをパクつく片手間にコーヒーを腹に流し込む。このコーヒーは文句なく旨い。香りも良く食欲を増進させる。だから、この店での軽食にコーヒーは欠かせない。相互補完的で、どちらが欠けても物足りない。

 テンポよく食い進める。相性の良い飲料と食物は溶けるように量を減らしていき、俺の胃の中へと収まっていった。

「あの」

 俺がチキンサンドを八割ほど喰い終わった頃、正面から澄んだ女性の声が聞こえてきた。俺は嚥みこみかけていたチキンを危うく吹き出しそうになった。単純にも対応策を考えるということを完全に失念していた。

 鼻まで登ってきた鶏肉の破片にむせて苦しむ姿はさぞかしマヌケだろう。再び羞恥心に襲われ顔が赤くなるのを自覚しながら、そっと視線を上げた。

「あ……かわ……ですね」

彼女に蔑むような様子もない。むしろ微笑を浮かべていた。言っていることは小声で聞き取れなかったが、その笑顔に人をバカにするような様子は微塵も感じられない。その純粋そうな善意に、鼻の奥と喉の手前にある異物感を忘れてしまいそうだった。

「ごめんなさい。そこまで驚くとは思っていなくて」

「い、いえ。ごふっ、ふっ。……あの、何か」

 いや、何か、じゃないだろ、俺。

「せっかくですから、何かお話しでもと思って」

「えっ、あ、そうですね」

 ようやく口中のサンドを全て処理し終えた俺はようやく彼女を視界の中央に据えることができた。

 真正面の女性は相変わらず微笑んでいる。遠目からでも見て取れた細い流線型の輪郭は、近くから見てもその印象は変わらなかった。眼はやや三白眼気味で若干眠たそうに見える。黒い瞳は何の邪気も感じさせない。鼻筋はあまり高くはないが、それはうっすらとした唇と共にどこか気品を感じさせる。

「あー、すみません。その、食べるのに夢中で」

「ふふっ。美味しそうに食べてましたもんね」

 若干お子様扱いされているような気もしなくはないが、ここは優しさの表れと解釈しておこう。

「ははは。お見苦しかったですよね。どうも、食べるの好きなんですよね」

「見苦しくなんかありませんよ。見ていて、こっちまで楽しくなってきました」

 子供どころじゃないな。どうも動物園の珍獣だ。

「大学はもう慣れましたか」

「ええ……あれ、自己紹介とかしましたっけ」

 パチパチ、と何度か瞬きをし、彼女は言った。

「こんな田舎ですから。貴方のような年齢の青年が昼間から喫茶店にいれば、誰でも大学生だと考えますよ」

「ああ、それもそうですね。因みにここにはよく来るんですか」

「ええ、ここ数年はこの日に必ず」

「へえ、今日は何か特別な日なんですね」

「そんな感じですね」

 少し寂しそうに彼女は笑った。

「あ、そういえば名前聞いてなかったですね。俺は広瀬です。広瀬恭悟。一年間浪人したんで十九歳です」

「早水紅葉といいます。あそこの大学四年生で理学部。私は二年も浪人したので二十四歳です」

 彼女はそう言いながら俺が通っている大学の方を指差した。

「へえ。じゃあ俺と同じですね。俺は工学部の一年です」

 なんとなく察してはいたが、やはり彼女の方が年上らしい。

「工学部ですか。やっぱり機械が好きなんですか」

「ああ、いや、そういうわけじゃないんですよ。ただ俺、高校も文科系が苦手だからって理由で理系に進んで、ここの工学部がセンター試験の社会科目いらないんですよね。だからここにしたんです。確か」

 我ながら志が低いとは思うが、俺は少数派ではなく多数派なのだ。

 しかし、もちろん機械が嫌いなわけではない。あくまで比較的という範囲にではあるが、特にパソコンを弄るのは結構好きな方だ。

「もちろん、工学系が嫌いってわけじゃないですけどね」

 だから、そう付け加えた。

「私も専攻柄パソコンに触れる機会も多いんですけど、なかなか苦手で……やっぱり触れ始める時期が遅かったのが原因なのかもしれませんね」

 まあ、今時パソコンに一切触れずに研究を進められる学部など存在しないわけだから、それも当然か。

 ん? そういえば。

 ふと疑問が浮かんできた。そういえば、俺は何歳くらいからパソコンに触れていたんだろう。…………判然としないが、かなり幼い頃からコンピューターの類に触れていたような気がする。しかし何故か具体的なイメージが何一つ湧いてこない。少しくらいは……例えば幼いながらに必死にタイピングを練習してチャットで他人と繋がろうとしていたような記憶を……思い出しても良いのに。どういうわけかモザイクがかかったように朧で思い出せない。ただ漠然と、昔から好きだったという事実が浮かぶだけ。

「何か趣味はありますか」

「え。ああ、映画とか音楽が好きですね」

 まあ、いいか。たかが幼少期の思い出だ。

「映画ですか。私はどちらかというと小説が好きですね。映画はどういうジャンルを?」

「コメディとかアクションとか割と明るいやつが。小説も色々ジャンルがあると思いますけど」

「私は……そうですね。やっぱりSFが好きですね」

「あの宇宙人とかロボットが出てくるやつですか」

「まあ、そういうのばかりではないですけど、大枠で間違ってないです」

 へえ、案外そういのが好きなのか。もう少し地に足のついたものか、もしくはラブストーリーが好きなのかと思った。

「例えばどういうのが好きなんですか」

 SFに特別興味があるわけではなかったが、一応聞いてみることにした。

「そうですねえ。いろいろ好きですけど、やっぱり時間ものが好きですね。タイムトラベルとかタイムリープとかするやつのことですけど」

 俺はそのトラベルとリープの違いも分からないくらいSFというジャンルに関心はないが、わざわざそういう言い回しをするのだからよほど好きなのだろう。何かを好きでたまらない人の話は、イマイチ理解できない内容であっても楽しく聞くことができたりもする。もう少し彼女から話を聞き出してみよう。

「オススメとかありますか」

「えっ……興味、あるんですか」

 彼女の心底意外だ、という表情に俺も驚かされた。

「ええ、まあ。強烈に、というわけではないですけど」

 そんな驚くほど無関心に見えていたのだろうか。もちろん強烈に興味があるというわけではないが、失礼にならない程度の関心は示していたつもりだったし、実際、話を聞きたいと思っていた。

 困惑している俺を尻目に彼女は妙に真剣な表情で考え始めた。

「オススメ…………そうですね。……ジャック・フィニイの『ふりだしに戻る』がオススメですね。角川文庫から出ていたと思います。典型的な時間もので、どちらかというとファンタジー寄りの作品です。慣れていない人にも読みやすいですよ」

「こんど本屋で探してみようかな。最近あまり本を読んでなかったし」

 パチクリと瞬きして彼女は呆けたように俺ことを見つめた。

 かと思っていたら、急に活気付いたように大きく目を開いた。

「是非! 是非読んでみてください。面白いですし、絶対に貴方の役に立ちますから。凄い。初めてのことです。あれ……初めて? あっ、今もしかして……やっぱり。もうこんな時間。ごめんなさい。ちょっと今から用事があって。急ですみません。また会いましょうね」

 捲くし立てるように言うと、彼女は立ち上がって微笑んだ。そのまま伝票を掴んでレジの方へ行き、早足で店から出て行ってしまった。

 沈黙が流れる。

 …………え。

 急展開についていけなかった俺はしばらく魂が抜かれたように店の出口を眺めていた。恐らく、今日一番のまぬけ顔だったろう。

「またも何も連絡先も知らないのに」

 やがて、起きたことを理解した俺は深く溜息をつき、すっかり冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干して、椅子にもたれかかった。こういう時タバコでも吸えれば少しは絵になるし、手慰みにもなるのかもしれないが、あいにく俺は文字どおり一ミリも吸えない。

 上体を反らして伸びをするとネックレスに吊られたペンダントが胸元からずれ落ちた。摘んで目の前に持ってくる。銀色のそれは平たくて丸く、ペンダントにしては少し大きすぎる。中央には平板なガラス、その周囲にはちょっとした装飾が施されている。

 いつから持っているのか記憶が定かではないが、俺はこのネックレスを絶えず身につけている。良いデザインだし、それに何か大切なものだったような気がする。

 気がする?

 幼少期の記憶と同じだ。俺はこのお気に入りのペンダントのことも詳しく覚えていない。そのことに今はっきりと気がついた。思い出そうとしてもさっきと同じで霧がかかったようにボンヤリしていて明確には思い出せない。……まあいいか。どうせたいした理由ではないのだろうし。

 また彼女に会いたい。容姿に惹かれたというのも否定できないけど、もっと別の……なんというか、経験に裏打ちされた信頼感というか、説得力というか……喋り方かな。上手く表現できない。

 ……我ながらおかしな話だ。歳はそんなに差は無いのに。

 

 

――――

(一)

 夏の終わり、秋口に近い。今日も閑散とした店内でひたすらコップを磨く。まだランチタイムには早いがモーニングには遅すぎる時間帯。飲食店に客は少ない。他所の店の動向をリサーチしたわけではないが、少なくとも私の店に客は少ない。今日はソレが顕著で今のところ来客はゼロ。店内には有線の音楽が寂しく流れている。

 カラン、と鈴の音が鳴った。

 視線を向けると、そこには一人の青年が立っていた。癖毛のついた黒髪。比較的痩せ型で身長も平均よりは高め。掛けている眼鏡と同じく丸い瞳は純真そうだが、たまにコーヒーを飲みながら口元を歪めることがあるから、純粋無垢というわけでもないのだろう。水色のシャツとジーンズというラフな格好。食べ損ねた朝飯を摂りにきたのだろう。年のほどは十八か十九。不定期にこの店にきてくれる。大学生か、もしくはフリーターだろう。もしくは自由業なのか。

 彼は私の店の数少ない常連客だ。

 私はこの青年が好きだ。理由は単純明快、コーヒーを旨そうに飲んでくれるから。喫茶店のマスターとしては何より嬉しい客。

 彼は奥の方に席を取り、メニューも見ずに手短に注文を済ませた。接客が苦手な私としては、手短に注文を済ませてくれるところも好印象だ。

 注文の通りにチキンカツサンドとコーヒーを用意する。それほど時間をかけず完成したそれをテーブルへと運ぶ。

 再びカウンターに戻ると同時に、ギッ、とドアが軋む音がした。

 カラン、カラン、という音が再び私に来客を告げた。入り口を見ると、女の子が一人立っているのが見えた。……かなり幼い。正確な年齢は分からないが、成人どころか十八にも届いてない。間違ってもバイトができる年齢帯ではないだろう。三白眼気味で上半分が隠れた黒い瞳からは歳に不相応の意思の強さを感じた。日に焼けてそうなったのだろうか、髪の色はライトブラウン。顔立ちは整っているがあまり魅力的には見えない。……いや、私がロリコンであるとかないとかそういう問題ではない。少女の様子に余裕や柔らかさの類が見受けられないからだ。内面の不調子がそのまま外面に出ている。切羽詰まっていて、それ以外の何かは目に写らないような、そんな印象。家出……もしかして何か犯罪でも……。

 ああ、考えすぎだ。職業柄、客の素性に思いを巡らせるのは当然だが、これは勘ぐりすぎだ。

 私は来客を迎えるため扉に向かう。

 しかし、珍しいこともあるものだ。立地や店内の雰囲気が問題なのかもしれないが、私の店に若い女性客はあまり来ない。ましてや女の子など。

 年相応の服装で、少しおどおどしている態度から、何気なく入っただろうことがわかる。店内をサッと見渡し客が非常に少ないことを確認すると、そのまま回れ右して店を出ていった。

 いや、出て行かなかった。

 ドアに手をかけたところで、ビクリと体を痙攣させ再び店内を見渡し、何かに気がついたようなハッとした表情を見せた。少女は近づいてくる。「席はどこに座ってもよいのですか」と尋ねられたので「どこでもお好きなところに、どうぞ」と答えると、少女は軽く会釈して、視点をある一点に向けたまま、颯爽と歩き出した。

 少女は常連の青年を見つめていた。

 

 

――――

(事象1)

 熾烈な閃光、同時に爆発音。人の声は呻き声、叫び声、呪いの言葉、祝いの言葉。

 一人いない。

 メモ用紙が落ちている。

「必要なもの:生贄、記憶操作、二〇一二年のコンピューター、刷り込み・催眠による規定行動指示」

 

 

――――

(レポート3)

 やっぱり、いつも通りの彼だった。何度も視た相変わらずの彼。もう、私のほうが年上だけど、あの時のように少し遠慮がちに私に話しかけてくれた。いつも私との軽口に付き合ってくれて、私の話に興味をもってくれる、優しい彼。

 渡航一時報告があったから長居できなかったけど、あの変化は初めてのものだった。……もしかしたらよい方向に変わるかもしれない。この書き込まれたページから抜け出せるかも……。

 

 

――――

(実験)

 壷のある部屋。男が一人。ドアが開く。入室者も男。

「今戻ったよ。指示通りにやってきた」

 部屋にいた男は怪訝な顔をする。

「……何を言っているんだ」

「何って……あれ、何で割れてないんだよ」

「まだお前が割ってないからだろ」

「いや、割ったよ。さっき。つまり、つい五分前に」

「五分前? いや、そもそも割る以前に、この部屋には誰も入ってきてない」

「はあ? そんな馬鹿な。俺は確かに割ったよ、それもお前の目の前で」

「俺の目の前で? ……ありえない。俺はずっとこの部屋にいて、壷から一瞬たりとも目を離さなかった」

「しかし、俺は確かに……」

「とりあえず上に報告しよう」

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