囁くあなた―サンプル―

 

 

==1==

 静かな朝、目が覚めた。

 何か夢を見ていた気がする。内容は覚えていない。どうも、とても嫌な夢だった気がする。しかし、漠然とそう感じるだけで、具体的には何も思い出せない。

 私はベッドから上体を起こした。いい朝だ。空気がヒンヤリと冷たく気持ちが良い。かなり寝汗をかいていたらしく、寝間着のシャツがベットリしていたが、冷えた空気に晒すと涼しさがより伝わり、かえって心地よい。

 大きく伸びをして関節を鳴らした。さて、今日も仕事だ。準備をするか。……そう思い時計に目をやると、デジタル時計ははっきりと8時17分を示していた。

 心臓が跳ね上がった。

 しまった。寝過ごした。

 私はベッドを飛び降りた。急いで準備して駅まで走ればまだ間に合う。日々の積み重ね、毎日の習慣は偉大だったらしく私はほぼ無思考に行動していた。上着とズボンを脱ぎ捨て、クローゼットからスーツを取り出す。もうネクタイなどは鏡を見ずに結べる。そして、ドア近くのカレンダーに手をかけて、ハタと手が止まった。

 日めくりカレンダーは八月十三日の土曜日を指している。朝起きたらめくることにしているから、今日は日曜日だ。

 安堵感が体に広がる。

 ああ、良かった。日曜なら仕事は休みだ。慌てて損をした。欠伸しつつスーツを脱いだ。寝巻きを着ようとも思ったが、湿っていて気持ち悪い。相当汗をかいたみたいだ。仕方なく運動用のジャージを身につけ、溜息交じりにベッドに戻る。

 しばらく眼を瞑ってみたが、もう目が冴えてしまい眠れない。どうもツイてない。仕方ないから二度寝を諦め、せめて休日を満喫しようと決意した。

 私はもう一度ベッドを抜け出した。ベッドをグルリと回り妻の寝ている方へ向かう。スヤスヤと寝息を立てている妻。彼女は若々しい。私と同い年なのに、私より五つは下に見える。頰を少し撫でた。まだ夢の国にいるのだろう、少し触れたくらいでは起きそうになかった。妻のホッソリした柔らかい頬を撫でるのが、私は好きだ。男の私と違って彼女の肌は滑らかでスベスベしているし輪郭線がふっくらとしている。しかし、妻は嫌がって中々撫でさせてくれない。

 しかし、寒い。

 ……ん? どうしたんだろう。何かおかしい気がする。

 ふと窓を見てみた。外が静か過ぎるような気がする。そういえば朝方によく聞こえる蝉や鳥の鳴き声が聞こえない。

 あれ?

 あ、いや。気のせいか。

 よく晴れている澄んだ青空。特に変わった様子もない。いつも通りの風景だ。長閑で静かな田園風景。私が愛する田舎町。

 一体何を不安になっているのだろう。万事いつも通り、何も変わってはいないじゃないか。

 苦笑いしながら、妻も艶やかな髪から手を離し扉へ向かった。名残惜しいが腹も減ってきた。そろそろ朝ごはんにしよう。

 階段を降りてリビングルームに向かう。途中娘の部屋に寄って一声かけようかとも思ったがやめておく事にした。父親というのは思春期の娘にあまり干渉しないほうが良い。

 そのまま階段を下ってリビングのドアを開いた。

 光景。

 え。ッは、あ、ぐ。動悸、動悸、苦痛、苦痛。

 あ、あ、あ。歪む、歪む、歪み、歪み。

 ああ、いや。変わる、固まる、変わる、固まる。

 違う。

 ……リビングに入る。娘が洗濯物を干している。食卓より少し離れて取っ掛りに器用に洗濯物を干している。

 朝寝坊のお母さんの代わりに洗濯か。我が娘ながら感心してしまう。私の妻は漁村の出身で早起きが習慣付いているため、私や娘より遅くなるとことは、ほぼ無い。私たちが寝ぼけ半分に起きてくる頃には洗濯や掃除を終えて朝ご飯まで作り終えている。ありがたくて頭が上がらないが、だからこそ今日の娘にも感心してしまう。

 恐らく疲れて眠っている母親をワザワザ起こすことを忍びなく思ったのだろう。こういう時くらいお母さんを休ませてあげよう、と思ったのかもしれない。立派なものだ。私などこれが好機とばかりに妻を撫で回していたのに。全く自分が恥ずかしい。

 娘の手伝いをしようか。そんな考えが頭をよぎったが、やめておくことにした。せっかく娘が一人で始めたことなのだから、最後まで一人でやらせるべきだろう。それに思春期の娘に触れるのは……。そもそも私では足手まといだ。

 しかし、何故わざわざ室内に干しているのだろう。せっかく晴れているのだから、外に干したほうが良さそうなものだが。まあ、娘なりに何か考えがあるのだろう。えらく体を張って洗濯しているようだから。少なくとも普段から全く家事をしていない私が言えることなど無いのだ。洗濯物から滴り落ちているものついては後で対処するのだろう。まあ、もっとキチンと伸ばして干したほうが良いとは思うが。

 私は娘の分も茶碗とコップを出し、食卓に並べておく。卵を取ろうと冷蔵庫を開き、そこで異変に気づいた。冷蔵庫が機能していない。扉を開いても冷気が感じられないし、内部の照明が点灯もしない。外が明るくて気がつかなかったが部屋の灯りも付かないようだ。どうも停電しているらしい。幸いそれほど時間は経っていないらしく卵が悪くなってはいないようだった。

 二つ取り出してコンロを捻る。しかし何の反応もない。何度か繰り返したが、結果は同じだった。停電でしかもガスも止まっているのか。

 どうしたのだろうか?

 まあ、いいか。仕方ないから卵焼きは諦めよう。

 炊飯器から白米を装う。停電で炊飯器の保温機能も停止しているらしく若干硬い。この件といい早起きの件といい、どうも歯車がズレている。今日はツイてない日なのだろう。薄く窪みをつけた白米に卵を落とす。間髪入れず醤油を二回りと少し垂らして、箸でかき混ぜる。カチャ、カチャと小気味良い音とともに黄身と白身、白米と醤油が混ざり合っていく。白、黄色、深い紫に近い黒が攪拌される。そして量的多数であった黄色が大勢を占める。少し泡立ち中央に白の混じっているそれを箸で摘み、口へ運ぶ。

 うん。美味しい。

 シンプルでいい味だ。茶碗を持ち上げカッ、カッと音を立てて掻っ込む。これがお茶漬けや卵かけ御飯の正統な食べ方だと私は確信している。娘が洗濯物を干している姿を眺めながら、あまり時間をかけずに完食した。

 一息つき少し生温いお茶を何杯か飲み干し、洗い物を流しに置いておく。洗うのは家族全員の朝食が終わってからで良いだろう。

 私は立ち上がって深呼吸した。臭いが鼻腔に広がる。……いや、気のせいか。いつも通りの草木の香りだ。

 さて、どうしようか。折角の早起きだから普段できてないことをやるべきだろう。最近の休日は、ほとんど一日中寝ていることが多かったから。

 ……そうだ。散歩だ。最近運動不足だったし、そういえばシロの散歩も妻や娘に任せきりだったな。たまには運動もいいだろう。服装はこのままで良い。丁度よくジャージだ。靴も確かランニングシューズが玄関の靴箱に仕舞っていたはず。となると、他に必要な準備はない。

「朝食、食べておくんだよ」

 ぶら下がって洗濯物干している娘に一声かけて、私は玄関口へ向かった。

 シューズはすぐに見つかった。かなり奥の方にしまってあり簡単には見つからなかったが、そんな場所に放置していた私の出不精を恥じるべきだろう。シロ用のリードや帽子も玄関に置いてあった。私は外に出る。

 違和感のない当たり前の風景。

 強い陽光が歓迎してくれた。やはり季節柄だろう、陽が高くなるのが早い。日光が強く、少し目が痛む。しかし気温は依然低く、総体的には過ごしやすい陽気だろう。

 シロの小屋は庭の片隅にある。シロはいつも気だるそう小屋の中に寝そべっている。滅多に吠えたりもしないタイプのどちらかといえば穏やかで怠惰な犬だ。しかし、それにしてもこれは少し大らか過ぎではないだろうか。

 シロは小屋の出入り口を塞ぐように横たわり、目を閉じている。よほど深く寝入っているのだろう。体をピクリとも動かさずグッタリとした姿はどこか幼さがあり微笑ましい。口元からは真っ赤な舌がダラリと姿を覗かせている。しかし困った。どうも多少揺すったくらいでは起きそうにない。体調が悪いのだろうか。腹部に薄く斑紋が出ているし、シロから活気というものを感じない。無理して連れて行くべきではないだろう。せっかくだったのだが、仕方ない。引きずってでも連れて行こうか……一瞬そんな考えも頭をよぎったが止めにした。流石にかわいそうだ。私は散歩用のリードを犬小屋に置いて出発することにした。

 この辺りは民家と田畑しかないような典型的な農業主体の田舎町だ。歩いて行ける範囲にはあまり目的地にあるような場所はない。強いて挙げれば三箇所。公園か神社か小学校かとなる。この選択肢ならば公園を選ぶのが無難だろう。

 進路を北にとって歩き始めた。自宅からゆっくり歩いて十五分程度の距離だ。少し遅めの朝日を浴びながら散歩するには丁度良い距離。気持ちよく歩を進める。

 カエルの轢死体がコンクリートの路面に張り付いている。万歳をするように前足を前に広げ潰され乾いて干物になり、地面に張り付き、もうほとんど同化している。水田が多い田舎ではよく見る、いわば夏の風物詩ともいえるが、車に乗るようになってから見ることも少なくなっていた。徒歩で通学していた小学生の頃が懐かしい。

 昔を懐かしみながら歩いていると、何か刺激臭が漂ってきた。

 なんだろう。腐敗臭、それに煙の混じった刺激臭があたりを漂っている。まさかこの蛙から臭っているわけではあるまい。

 あたりを見渡してすぐ原因がわかった。畑で何か燃やしているらしい。遠くてよく見えないが、うず高く積まれた何かが黒煙を上げている。久しぶりに見たな。田舎ではよく畑や庭で何でも不要物を燃やしていたが、最近は役場が煩いのか藁や草束の類しか燃やさなくなっていた。しかしこれはそういう臭いではない。しかし、間違いなくあの辺りから臭ってきている。……腐敗臭がするのだから、恐らく動物の死体でも焼いているのだろう。

 臭いのせいで少し気分が悪いが、散歩を取りやめるほど強烈なわけではない。散歩は続行しよう。

 暖かな陽射し、爽やかな風。幸せだ。こういう天候では特にそう実感する。人並みではあるが充実した毎日。平凡だが、それこそが私が生涯をかけて追い求め、渇望した唯一の望みだ。私は弛まぬ努力によってそれを手にした。閑静な田舎での妻と娘との静かな暮らし。最寄り駅まで少し遠いのが玉に瑕だが、欠点といえばその程度だ。静かなで穏やかな暮らし。

 ようやく手に入れた穏やかな日々。緩やかに時間が流れていく幸せな空間。私は今が幸せだ。堪らなく幸福だと声を大にして叫びたいほどだ。しかし不安がないわけではない。私はこの平和な日々を失うのが怖い。この安寧がいかに脆いものであるか、よく理解しているつもりだ。一度この手から零れ落ちれば二度と戻らない気がする。だから私は何としても守らなければならない。どうしても。

 どんな手段を使ってでも。

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