文字を喰う人―サンプル―

 

 

 目覚まし時計の音。ボタンを押して黙らせ、起き上がる。同時に言葉が頭の中で流れ始める。

 今日は三月十三日。カーテンを開くと空はドンヨリ曇っている。ねずみ色の空模様。雨雲という感じではない。快晴からは外れているが昨日の天気予報どおり雨の心配はなさそうだ。

 午前7時13分、まだ少しボンヤリしている。いつものように台所に向かい、六枚切りの食パンにトースターで火を通し、たっぷりとバターを塗る。習慣になっているからしくじりはしない。ヌラヌラと小麦色にテカる食パン。起き抜けなのに食欲がそそられる。

 囓る。

 一口、旨い。二口、三口と続く。頬にパンが満ちる。

 咀嚼しながらコーヒーメーカーを作動させておく。その機械は汽笛に近い奇妙な騒音を伴って自動でコーヒーを淹れてくれる。そう時間を経ず、モクモクと温かな湯気を上げる熱いコーヒーが出来上がった。私はそれを一口啜って、目を覚ました後、二枚目の食パンをトースターに掛けて、新聞を取りにいく。

 活字を目で追いながら食べる。擦過音、啜る音、鳥の鳴き声。ペラリ、スゥッ、チッチュッ。……全面に目を通し終えた頃にはパンとコーヒーが全て胃の中に収まった。大雑把に新聞をまとめ、歯磨きや洗顔などといった各種身支度を開始する。冷たい水が頬を刺激する。深呼吸すると澄んだ空気が肺に満ちて気持ちがいい。シェーバーが肌を走る。歯磨き粉は爽やかなミントの風味。柔らかい歯ブラシが歯を優しく撫でる。……全て終えるまでにおよそ30分かかった。あとは予定の時間までゆったりとして過ごす。

 言葉が巡る。

 景色、音、匂い、自分の動作、他者の動作。これは私の癖だ、と私は文字に起こして思考する。私は自分の眼に映った事象とそれに付随する思考を言語化してしまう。口に出したりはしないが、私の頭の中は始終言葉が巡っている。

 今日は熊本市内に出かけよう。

 午前8時30分、私は黒っぽいバッグを肩にかけ、イヤホンを耳に着けてアパートを出発した。聴こえる音楽は「やさしさに包まれたなら」で、ということは松任谷由実のバラードベストアルバムが再生されているのかと当たりがつく。

 アパートから最寄り駅の玉名駅までは、徒歩で十分もかからない。流石に8時34分出発の電車には間に合わないが次の8時59分発進なら余裕で間に合う。私はのんびりと駅に向かった。

 風景は言葉に変換される。錆びた信号機、剥がれかけの横断歩道、私大の広告、寂れた商店街……時計屋、居酒屋、服屋、コインランドリー……駅のホーム。

 駅に居るは高校生や大学生くらいの年齢の者がほとんど。それもまばらでいかにも中途半端な田舎の駅だ。私は電子マネーが嫌いだから現金で乗車券を買い、改札口を通過した。

 予定時間通りに一番線に到着した鹿児島本線・八代行き電車の先頭車両に乗り込んだ。乗客の量はそれなりといったところで、混んでないが席も空いていない。どうも座れそうにない。だから、そのまま隅の方に寄りかかり、バックから文庫本を取り出して時間をつぶすことにした。

 電車が玉名駅を出発して二駅ほど通過したあたりで、読んでいた筒井康隆『虚人たち』はレストランで食事を摂るシーンに入った。61頁中盤から62頁中盤くらいまで続くカレーの描写。なんとなく腹が減ってきくる。

 それから2頁ほど進めて本を閉じた。なんとなく飽きたからだ。明日の仕事のことを考えながら電車に揺られる。明日は確かコンビニ回りだ。ゲッソリする嫌な感覚。私が知っている限りコンビニの店長はえらく高圧的でしかも冷淡な人間が多い。コチラがニコニコしているのだから愛想の一つくらい見せてくれてもバチは当たるまいに。……けど、それも給料のためだ。私も社会人の端くれなのだから、そのくらいは我慢しよう。

 終点から一つ手前の上熊本駅で下車した。上熊本駅から熊本市中心街へ。それなりに離れているから普段なら市電を使って移動するが、今日は幸い曇っていて暑くも寒くもないという散歩日和だ。だから歩いて行くことにした。運賃百五十円はバカにならない。

 市電の路線をほとんどそのまま沿っていくようなルートを歩く。段山町付近まで路線に沿って行き、その少し手前で路線を外れて南東よりに歩を進め、中央病院近くを経由し熊本城の根元を通った。

 下通アーケードに入り書店に直行する。新刊コーナー等を少し見て回り、結局何も買わずに店を出ることにした。一日前に発売予定だった本を二冊購入する予定だったが、どちらもまだ店頭になかったからだ。地方の悲しいところで、まだ入荷していないらしい。

 アーケードを上り、通町筋を横断して上通アーケードに入る。直進しながら腕時計に目をやると、丁度11時30分を指していた。かなり腹も減ってきた。このあたりで何か食べておこうか。飲食店を認識する。カツどん、カレー、ラーメンのチェーン店。洋食屋、喫茶店、中華料理屋、ベトナム料理屋。……なんとなく、どれも気が進まない。結局どこにも入ることなく、そうこうしているうちに次の目的地が見えてきた。

 アーケードの終わりから少し歩いた場所にある古書店。もとは郷土誌や学術書が専門らしいが、店先で文庫本の安売りもしている。全品均一価格で百円なのだが妙にマニアックなものが棚に紛れ込んでいることもあり、一度この棚に『影のジャック』を見つけたこともある。一体どんな仕入れをしているのだろうか。もしくは私が知らない間に『影のジャック』の価値は大幅に下落していたのだろうか。完全復刻版か何かが発売されたとか。

 先日とは違い、今日は不作だった。何も買わずに店を出る。

 腹が減った。

 食欲が胃の中で唸り声をあげる。もう12時を回っている。もう一軒古本屋を回る予定だったが、先に飯を食っておくことにしよう。決意とともにあたりを見渡す。ラーメン、定食、チェーンの喫茶店、居酒屋……私はこのあたりの飲食店を大まかに把握している。だから見慣れた風景の中にあった異物を見逃しはしなかった。

 引き寄せられるように、一枚の看板が眼に留まる。

〈喰字〉

 その控えめなサイズの看板には続けて食事処とある。何と読むのだろう。クイジ……いやクウジかな。

 件の古書店から二軒ほど隣のあたり、ちょっとした十字路になっている場所。確か前に来た時には廃墟……そこまで言わずとも寂れた無人の建物だったはず。いつのまにできたのだろう。寂れた雰囲気だが半透明の窓ガラスの先には確かに人の気配がする。中で何か営業しているのは間違い。

 ちょっと胡散臭そうだが、まあ、たまにはこういう店に入ってみるのも良いかもしれない。私は少し錆びたドアノブに手をかけた。

 扉を開くとチリン、チリンと鈴の音が鳴った。店内はあまり広くなく割と小綺麗にまとまっている。二人がけのテーブルが二つ、四人がけが二つ、さらに一回り大きいテーブルがもう一つある。店の外観がうす汚いからか、店内はよけいに清潔そうにみえる。

 ランチタイムにも関わらず、店内に客は一人もいない。これを偶然の幸運と考えるべきか、それともランチタイムに客の一人も入っていないほどのヒドい店と捉えるべきか、まだ判断はつかない。

「いらっしゃいませ。御一人ですか」

 カウンターに佇んでいた老境の男が声をかけてきた。柔和な瞳に品の良さそうな口髭。声は低く落ち着いていて物腰は柔らかだ。私が一人で来た旨を伝えるとその男は私を二人がけのテーブル席へ誘導した。

 接客の態度と年嵩から考えると、彼がここの店主だろう。良好な人格を思わせる自然な微笑、綺麗に洗濯されたカフェコート、水やメニューを置く丁寧な動作。……良い店だ。多少料理が不味くとも常連になりたくなるような居心地の良さを感じる。

 私がそんなことを考えていると、客に対する一連の対応を終えた店主が口を開いた。

「お決まりになりましたら、そちらのベルでお呼びください」

 

 

〈メイン・ディッシュ〉〜全品400円

[壜]

[茸]

[廣]

[黌]

〈サイド・メニュー〉〜全品200円

[笞]

[罐]

[鐡]

[呂]

[暈]

※オプションについては直接お申し付けください。

 

 

 創作料理だろうか。〈メイン・ディッシュ〉も〈サイド・メニュー〉のどちらもどういう料理なのか見当がつかない。見慣れない文字ばかり使っている。かろうじて読めるのは……「きのこ」と「ろ」それにこれは確か「こけ」だったかな。他は見覚えあるが読み方も意味も思い出せない。ただ、あまり料理らしくは見えない。

 とりあえず、あの店主らしき男に尋ねてみるか。私は呼び鈴を鳴らした。客が私一人で暇だったのかもしれない。店主の男はすぐに来てくれた。「ご注文は?」とメモ用紙を取り出すのを手で制し、メニューについて尋ねた。すると、店主はちょっと驚いたような顔をした後、「ああ」と声を漏らし、いかにも納得らしい表情を浮かべた。

「そういういえば見かけない顔でした。この店初めてですよね」

 私が肯定の言葉を返すと、男はニコリと笑った。

「年は取りたくないものです。どうも忘れっぽくなってしまって。……ああ、いや、失礼しました。メニューについて、ですよね。お客様は初見ですから、メニューから料理の内容が想像できないのでしょう。当然です。初めていらっしゃったお客様は皆おなじですから。

 ……さて、説明が必要かもしれませんが、当店ではそれを推奨していません。無論、私のほうから一品ずつ全て説明することもできますが、少し時間がかかりすぎます。それに、百聞は一見に如かずといいますか、実際に注文していただくのが一番手っ取り早いです。なので、当店では初見のお客様には一品無料でサービスしています。どれでもご自由に、一品だけお申し付けください」

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